「走ることについて語るときに僕の語ること」
村上春樹の新作エッセイ。エッセイといってもその文体は村上の得意とする紀行文のもので、チャプターがかなり長い(軽妙洒脱なものを期待したらちょっと躓くかもしれない)。でもまあ、それだけにじっくり読める。結局はあっという間に読み終わるのだけど。
村上がその時走っている場所の、季節の描写が素敵だ。
たとえば、ボストン。学生たちがレガッタの練習に励み、女の子たちが芝生の上にビーチタオルを敷いてウォークマンやiPodを聴きながらビキニ姿で日光浴をし、毛の長い犬は脇目もふらずフリスビーを追いかけ、誰かがギター弾きつつニール・ヤングの古い歌を歌っている夏の後に、
しかしやがて、ニューイングランド独特の短く美しい秋が、行きつ戻りつしながらそれにとってかわる。僕らを取り囲んでいた深い圧倒的な緑が、少しずつ少しずつ、ほのかな黄金色に場所を譲っていく。そしてランニング用のショートパンツの上にスエットパンツを重ね着するころになると、枯れ葉が吹きゆく風に舞い、どんぐりがアスファルトを打つ「コーン、コーン」という固く乾いた音があたりに響く。そのころにはもう勤勉なリスたちが、冬ごもりのための食料を確保しようと、目の色を変えて走り回っている。
ハロウィーンが終ると、まるで有能な収税吏のように簡潔に無口に、そして確実に冬がやってくる。
(中略)
そして季節は川をとりまく植物や動物たちの相を確実に変貌させていく。いろんなかたちの雲がどこからともなく現れては去っていき、川は太陽の光を受けて、その白い像の去来をあるときは鮮明に、あるときは曖昧に水面に映し出す。季節によって、まるでスイッチを切り替えるみたいに風向きが変化する。その肌触りと匂いと方向で、僕らは季節の推移の刻み目を明確に感じとることができる。そんな実感を伴った流れの中で、僕は自分という存在が、自然の巨大なモザイクの中の微小なピースのひとつに過ぎないのだと認識する。川の水と同じように、橋の下を海に向けて通り過ぎていく交換可能な自然現象の一部に過ぎないのだ。(p123)
僕は走らない人だけど(走っても月に一度くらい、思い出したように)、休日にチャリをさーっと流すのは昔から好きだから、この感じは身にしみてよくわかる。そりゃ、走る人に比べたら見逃すものは多いだろうけど。
マラソンをやりたいと思ったことがない代わりに、トライアスロンをやりたくてちょっと真剣にトレーニングし始めたことがあったのだけど、じきに仕事が猛烈に忙しくなって挫折した。そういうこともあって、長距離を走ることには羨望がある。
2005年、村上はニューヨーク・シティ・マラソンのためのトレーニングをしていた頃、不意に右膝に不安を抱えることになる。このあたり、村上春樹の真骨頂ともいうべき描写。
10月29日、レースの1週間前。朝からちらほらと小雪が舞って、昼過ぎから本格的な雪になる。ついこのあいだまで夏のようだったのにな、と感心してしまう。これがニューイングランドの気候だ。僕は大学のオフィスの窓から、湿った雪片が降りしきる光景を眺めている。身体の調子は悪くない。練習の疲れがたまっているときは、足が重くよろよろとしか走り始められなかったのだが、最近は軽い感じでスタートできるようになった。足の疲れがうまく抜けてきたらしいことがわかる。走っていても「もっと走りたいな」という気持ちになってくる。
しかしそれにもかかわらず、やはり不安は去らない。僕の目の前を一瞬よぎった暗い影は、本当にどこかに消えてしまったのだろうか? それは今でもこの身体のどこかに潜伏し、出番をじっと狙っているのではあるまいか? 屋敷の人目につかない場所に身を隠し、息をひそめて家人が寝静まるのを待ち受けている巧妙な盗人のように。僕は自分の身体の内部を、目をこらしてのぞきこんでみる。そこにあるかもしれないものの姿を見定めようとする。しかし僕らの意識が迷路であるように、僕らの身体もまたひとつの迷路なのだ。いたるところに暗闇があり、いたるところに死角がある。いたるところに無言の示唆があり、いたるとろに二義性が待ち受けている。(p179〜)
今年のニューヨーク・シティ・マラソンは今週末。
走りたくなってきた。
p.s.
ランナーの土佐礼子さんからTB入って、びっくり。これは村上春樹からのTB(もちろん無いけど)より嬉しいかもしれない(笑)
October 31, 2007 in books | Permalink
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» 村上春樹の本・・・ from 土佐礼子
村上春樹の走りを語った本、走ることについて語るときに僕の語ることが評判ですね。最初はちょっとイメージが結びつかなかった組み合わせ。 部屋にこもってモノを書き続ける作家という職業と、筋金入りの市民ランナー。「羊をめぐる冒険」「1973年のピンボール」「風の歌を聴け」「ノルウェイの森」等々・・ずいぶん読み漁った作家の一人です。その村上春樹が月260kmを走るランナーだったとは、しかもサロマ100kmも経験しているウルトラランナーだったとは・・・驚きです。でも、前書きを読んで直ぐに興味を惹かれました。【前... [Read More]
Tracked on 3 Nov 2007 11:52:39
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