01/10/2011

「オラクル・ナイト」ポール・オースター

オースターお得意の多重構造。あとがきで柴田元幸が書いているようにオースター曰く「弦楽四重奏」な小説。
オースター自身が書く物語の中で主人公が書く物語、さらにその物語の中で。

タペストリーとかそんな上品なものじゃないけど、あやなす物語の中で人生の襞のどろりとしたものがくみあげられ、容赦なく陽のもとに晒されていく。主人公たちは、できることなら知りたくない事実をつまびらかにされ、知りたくない事実の関係性に打ちのめされる。
事実を彩るエピソードの数々。それを読む快楽。読み進まずにはいられない。

Oraclenight

小説家の「私」シドニー・オア が、20年前(当時30代前半)に大病をした直後に起こった奇妙な出来事を書き連ねていく。
美しく、ストイックで聡明な、青い目の妻グレース、グレースの父親がわりのどこかヘミングウェイを思わせる友人作家ジョン・トラウズ 、トラウズの暴虐な息子ジェイコブ、この物語のすべての鉄爪になったポルトガル製の青いノート、そのノートを買い求めた先の文房具店主、M.R.チャン。
リアルの主要登場人物はこれだけ。

もちろんブルックリンでの物語。

「私」がポルトガル製の青いノートに万年筆で綴る物語の中で。
ニッキー(編集者)と妻イーヴァのレストランでの食事風景。ふたりはその夜、ニッキーの元にある小説を持ち込んできたローザを見かける。1927年に書かれた未発表の「オラクル・ナイト(神託の夜)」。ローザはその小説を書いた作家の孫娘だ。

イーヴァはさっきから首をのばしてローザのテーブルの方を見ている。すごく綺麗だよね、とニックは言う。でもニッキー、髪は変だし、服装は最悪よ。関係ないさ、とニックは言う。とにかく生き生きとしてるんだよ。あんなに生き生きとした人に会ったのは何ヶ月かぶりだね。あれは男をとことんひっくり返しちまうたぐいの女性だよ。
男が妻に言うべき科白ではない。特に、夫が自分から離れかけている気がしている妻に言うべき科白では。


その夜ニックは、ダシール・ハメットの「マルタの鷹」の中の登場人物をそっくりなぞったアクシデントに巻き込まれる。
「誰かが人生の蓋を外して中の仕組みを彼に見せた」ような出来事。「世界は偶然に支配されてい」て、「ランダム性が人間に、生涯一日の例外もなくつきまとって」いて、「命はいついかなる瞬間にも、何の理由もなく人から奪われうる」ことを象徴する出来事。

それは「私」が描く物語の中で主人公に与える神託。

一方「私」にとっては、ポルトガル製の青いノートこそが神託だった。

私は万年筆のキャップを外し、青いノートの1ページ目の第一行にペン先を押し付けて、書き始めた。
言葉はすばやく、滑らかに、大した努力も要求せずに出てくるように思えた。驚いたことに、手を左から右へ動かし続けている限り、次の言葉がつねにそこにいて、ペンから出るのを待っていてくれるように思えた。


オートマティズムのように書き連ねていく物語は「私」自身への神託として跳ね返っていく。
グレースの秘密と懊悩、文房具店主チャンの奸計、トラウズの息子ジェイコブの破滅、「私」とグレースを飲み込む悲劇と、トラウズによってもたらされた再生。

これより1本前の、まだ読んでいない「幻影の書」を読む前に、「幽霊たち」「鍵のかかった部屋」を再読したくなった。

 

 

January 10, 2011 in books | | Comments (2) | TrackBack

05/07/2008

「ティファニーで朝食を」「花盛りの家」トルーマン・カポーティ / 村上春樹訳

ブレイク・エドワース監督の「ティファニーで朝食を」は観ているけどカポーティの原作は読んでなかったので、村上訳が出たのを機に。
僕は映画の方は全然楽しめなかったのでカポーティの原作はちょっと期待していたのだけど、映画とは全然違った趣で、びっくりした。50年代ニューヨークの息づかいは小説の方にこそ充満している。

主人公ホリー・ゴライトリーのキャラクター設定も、そう。カポーティの毒は映画ではすっかり消え失せてしまっている。できればカポーティ自身に脚本を書いてもらいたかったところだけど、オードリー・ヘプバーンが主役ということもあり、そうはいかなかったのだろう。
さらに、原作を読んだ人はみんなそう感じるだろうけど、ホリー・ゴライトリーはオードリー・ヘプバーンのキャラクターじゃない。あとがきで村上も書いているが、カポーティの原典に忠実にリメイクしたものを観たい、と思いますよね。
その際、誰がホリーを演じる? キーラ・ナイトレイ? 5年後のダコタ・ファニング? ナタリー・ポートマン?

「ティファニーで朝食を」所収の「花盛りの家」も堪能した。おとぎ話的世界観とめくるめく文体がいわゆる初期〜中期の「夜の樹」「草の竪琴」にも通じるものがあるような気がする(「ティファニー」が書かれたのはこの作品の4年後)。残酷で、エロい。
物語の設定はルイ・マルの「プリティ・ベビー」を想定してもらえばいいか。無垢な少女がある娼家のおかみに拾われて一帯で評判の娼婦になり、ふと出会った少年と恋に落ちて、少年の家で奇術的な毒々しい体験を重ねているうちに....という展開。
もうそれだけでカポーティ。

 

May 7, 2008 in books | | Comments (0) | TrackBack

03/02/2008

村上ソングズ / 村上春樹、和田誠

村上らしい、ジャズ、ロックのお気に入りの曲についてひとりごつようにぽつぽつ書かれた本。相変わらず和田誠とのコンビネーションが素晴らしく、味わい深いものがあります。
音楽に関する本では「ポートレイト・イン・ジャズ」「ポートレイト・イン・ジャズ2」「意味がなければスイングはない」「さよならバードランド」等いろいろ出していますけど、この「村上ソングズ」くらい洒脱なのも楽しめますね。その代わりあっと読み終えてしまうのが難と言えば難なのですけど。

僕が聴いてきた音楽はかなり偏りがあるので、本の中で紹介されている曲で知っているのは本当にごくわずか。その中からいくつか。

  • Autumn In New York / Ted Straeter
    ヴァーノン・デュークのお馴染みのスタンダードですけど、このTed Straeter盤は聴いたことありません。シナトラやビリー・ホリディで聴いてます。ここはビリー・ホリデイのものをよかったらどうぞ。
    Autumn In New York / Billie Holiday
  • Moonlight Drive / The Doors
    ドアーズの "Strange Days" 所収。僕がドアーズのことを知ったのは80年代に入ってからのことなので、彼等に強烈なシンパシーを感じているファンに対してはちょっと距離を感じます。ほとんどのアルバムを聴いてきているんですけどね。やっぱりあの時代だからこそのドアーズだから、なのでしょうか。それにしても、とくに初期のドアーズ、ジム・モリソンの声には本当にジビれますね。
    というわけで、YouTube から。
    この声はほんとに何なんだろうね。
    Moonlight Drive- The Doors- Live Hollywood Bowl 1968
  • Blue Monk / Abby Lincoln
    お馴染み、セロニアス・モンクの「ブルー・モンク」をアビー・リンカーンが詩をつけて歌ったもの。ボーカルが入ったものはカーメン・マクレエのものしか聴いたことが無くて、アビーのも是非聴いてみたい。ネットではこの二人のが見つからなくて、モンクのトリオのものをYouTubeから。ピアノの向こう側でカウント・ベイシー御大が悦に入っているのがもう、ゴキゲンです。
    Blue Monk / Thelonious Monk Trio
  • Miss Otis Regrets / Ella Fitzgerald
    コール・ポーターのちょっと不思議な味わいの曲。歌詞もデリケートで、奇妙な印象。エラ以外にもベッド・ミドラーとかカーメン・マクレエとか歌っていますが、おもしろい映像を見つけました。Kristy MacColl と、なんと The Pogues の共演!後半ではシェーン・マガヴァンも歌ってます。
    The Pogues & Kristy MacColl, VERY RARE Videos !

他にもR.E.Mとかシェリル・クロウ、ライ・クーダー、トニー・ベネット、ジョニ・ミッチェルとか。案の定、ブルース・スプリングスティーンも。ほんとに村上はスプリングスティーンが好きなんですね(笑)
こういった構成で、ぜひクラシック音楽版を出して欲しいなー。

村上ソングズ
中央公論新社
発売日:2007-12

March 2, 2008 in books | | Comments (0) | TrackBack

02/29/2008

なぜ「中国人の99.99%は日本が嫌い」なのか、やっぱり分からない。

この時期にまできてアメリカ公聴会で「中国は五輪を開催するのに相応しくない」と断じられ、北京五輪を控え国際的な不安をかき立てないためにもギョーザ事件の真相を「薮の中」に葬り去ろうとし、先日重慶で行われていたサッカー東アジア選手権ではおよそサッカーとは言えない、むしろただの子供の挑発と喧嘩だろう?という行為を乱発したことで東アジア・サッカー連盟から制裁金を課せられ、中国が(今さらってわけでもないけど)ことに最近きな臭い。
ギョーザの事件に関しては、科学に政治が介入してきていることでうやむやになりつつあるのは確かなようで、心理戦の様相も呈してきた。

東アジア選手権では、自国での開催でありながら地元のテレビ放映にはタイムラグがあったらしい。自国チームの悪質なファウルなど、印象的に不利な局面をカットするためだ。そういう情報規制(操作)はもう、あからさま。周知の通り、中国からはネットでウィキと2ちゃんに入ることができない。
どうも、大した実力もないのに変にプライドばかりが高い勘違い野郎、といった趣で、過去に某知事が「民度が低い」と切っていたことを思い出す。

それでも昨日、1947年の2・28事件の被害者に国民党が謝罪し(1995年の李登輝総統以来)、案外人間社会上のリテラシーあるんじゃん?と思わせるけど、これはこういう時期だからこそのパフォーマンスなのか? 五輪を間近に控えたこの時期、対外的にここはもう一度謝罪しておいた方がいいだろう、というような。

サッカーにおける中国サポーターの日本への罵倒ぶりが気になって、「中国人の99.99%は日本人が嫌い」という本を図書館で借りて読んでみた。ちょっと、このへんの(日本が関わる)歴史には疎いので。著者の若宮清氏は現在早稲田大学社会システム工学研究所客員研究員。ググってみたら分かる通り、かなりうさん臭い人物なんだけど、本の内容はまともで、読ませるし、面白い。
それにしても、ストレートなタイトルの本ですね(笑) 作者の思い込みばかりが先行しているんじゃないかと危惧するような。実際、そう感じさせる文体の部分も多いのですが、内容はあくまで史実に基づいている。

結局この本の中で分かるのは、「民度が低い」などと言われるのは資質なのではなく、情報操作に基づく歪んだ教育の結果だということ。なぜそうなってしまうのかと突っ込まれたら、決して謝らない・平気で嘘をつく・誇りばかりが高い・過剰な自己主張をする、という民族のDNAに因する、ということのようだけど、同じ人間としてそれはひとつの側面でしかないのじゃないか?
それにしたって

中国では、勝者によって歴史は常に捏造されてきた。捏造された歴史であっても100回繰り返せば真実になる。中国人ならそう考える。(P159)

というのは感覚的に理解しがたい。捏造は捏造でしかない。
それを「捏造だったんだ」と真実を知る機会があるのはネットの中にこそであろうし、あるいは留学生という立場にいる人たちに与えられているのだろうけど、なんとか中国のネット・リテラシーの高い人たちに頑張ってほしいところ。

それにしてもやっぱり、何故中国人の99.99%が日本を嫌いなのか、その構造が分かりにくい。

追記:
この本の視点とは違うけど、この記事も興味深かったです。
中国人が「最も嫌いな国」は、日本ではなくなった!
毒入り餃子事件を中国人は本当はどうみているか?
(以上、DAIAMOND online より)

February 29, 2008 in books | | Comments (0) | TrackBack

02/20/2008

「ダイング・アニマル」フィリップ・ロス

20代愛人との性愛に溺れる60代批評家・私(当然ロス自身?)の、嫉妬と性欲にがんじがらめになる過程が声に出して笑えるほど面白い。でもそこに滑稽はない。ユダヤ系アメリカ人作家でありながらユダヤ人に批判されることも多い辛辣家ロスが抉り出し、明るみに出すものの前には結局沈黙せざるをえない。自分の息子との関係をカラマーゾフの父子と対比させるあたり、その普遍的な業の深さにおいて。

愛人との行為を「私」はこう描く。

しかし、ここで私は絶頂に達する。幻のレッスンは終わり、しばらく私は情欲に病むこともない。これはイェイツだったか?「わが情念を焼きつくし給え、情欲に病む情念、死を背負う獣性に金縛りになった情念は、身のほどをわきまえぬ」。イェイツ。そうだ。「官能の妙音に捕われの身の者は」云々。(p96)

イェイツはドストエフスキーのカラマーゾフを読んでいたのかと思わせるような。年代的に可能性はある。読んでいなくても、「身のほどをわきまえぬ」という言い回しのどろりとした絶望的な深さにはフョードル・カラマーゾフを彷佛させるものがある。

ロスの小説は読みやすく、好きだ。といっても「さよならコロンバス」「背信の日々」「いつわり」「父の遺産」くらいしか読んでない。「コロンバス」なんて中学生の時だったからどんな話だったかさえ覚えていない。「ダイング・アニマル」の前作「ヒューマン・ステイン」を原作にしたロバート・ベントンの映画「白いカラス」(アンソニー・ホプキンス、ニコール・キッドマン主演)は傑作だったけど、原作はその厚さに恐れをなして読んでいない(多分、めっちゃくちゃ面白いと思う)。
全部読破したいですね。とくにフィリップ・ロスを語るなら欠かせないはずのいわゆる「ザッカーマン三部作」は。

 

February 20, 2008 in books | | Comments (0) | TrackBack

02/02/2008

ライフ・アフター・ゴッド/ダグラス・クープランド

クープランドの小説をまじめに読んだことはないのだけど、最近ウチの相方が原書を数冊購入して読む気満々のようなので、僕もちょっと読み返してみる気になり図書館から2冊(もちろん翻訳)、「ライフ・アフター・ゴッド」と「マイクロサーフス」を借りてきた。
Jpod_01 画像は相方が購入した「Jpod」の原書。ちょっと根気がいりそう。

ニュー・ロスト・ジェネレーションあるいはジェネレーションXの文学と言われているけど、日本文学でこれに相応する作品はあるのだろうか。90年代以降のものはほとんど読んできていないので断言できないけど、各時代の喪失感とその果てで主人公がさらに彼方を見据えた、W村上が代表するような小説以降、シーンらしいシーンが出現していないから、多分、無いのだろう。
っつうか、太宰の「無頼派」以降、シーンを特徴付ける表現が見当たらない。三島にしても、吉行にしても石原にしても「戦後派」と括られるだけで、その文学自体を特徴付けるものはないような気がするけど、どうなのだろう。

ニュー・ロスト・ジェネレーションには行為に伴う目的が無い。もっといえば、「行為」自体が無い。消費の果てで三無主義に徹している(もちろんそこに意志はない)のだからそれもそうだろう。(それにくらべればジェイ・マキナニーに代表されるロスト・ジェネレーションの方がまだ体温を感じられる。)
正直なところ、だからこそ読みにくい。シンパシーが感じられないから、その物語世界に入っていけないし、集中して読むのが難しい。

でもまあ、そこは読み方次第。エッセイとアフォリズムが入り交じったものととれば、そう、サーフするように読める。また、クープランド自身も小説界における自分の立ち位置を了解しているのだろう、時折挟まれる、ふと人生を見つめたときの警句めいたフレーズがめちゃくちゃカッコ良かったりもする。シニカルだしね。
例えば、短編集「ライフ・アフター・ゴッド」の中の「ゲティスバーグ」から。

若い時は、いつまで経っても、自分の人生だけは、まだまだ本格的に始動していない気がするものだ。人生は、いつまで経っても、次の週、次の月、次の年、そして次の休暇が終わってからやってくるもので、いつかずっと先に起こる出来事でもあるかのように思い込んでいる。それでも、いつしか突然、歳をとってしまい、予定していた人生などやってこないことにも気づく。そこでようやく自問自答を始めるようになる。「それなら、それまで存在してきたあの間奏曲(インターリュード)は一体、騒然としたあの乱痴気騒ぎは一体、何だったんだろう?」(p120)

その小説の中に「行為」自体はないけど、なんか真摯なものがあるよなー、と思いつつ読んでいます。

 

February 2, 2008 in books | | Comments (0) | TrackBack

01/07/2008

「カイト・ランナー」カレード・ホッセイニ(追記あり)

読書の幸福とはこれだ。ディネーセン小説の読後感にも似た豊穣。とにかく文章が端正で読みやすい。

この小説は映画化された(2月9日公開)。先日「サラエボの花」を観に行った時、予告編が出てきたのでびっくりした。タイトルは「カイト・ランナー」ではない。小説の中での重要な台詞(キーワード)をタイトルにしている。ので、もはやネタバレもクソも一緒になってしまった。そのキーワードは、「君のためなら千回でも」。(マーク・フォスター監督)
公式ホームページ

この台詞がどういうシチュエーションで使われるのかはとても書けない(でも映画の方の予告編ではそのシーンがしっかり出ちゃっているんだよね)。読んでのお楽しみ。もうひとつ、「あんたのためなら、千回でも」というのも出てくる。主人公(私)の状況的には、こちらのほうがグッとくるものがある。

帯の文章を紹介。

12歳の冬、わたしは人を裏切り、嘘をつき、罪を犯した。
26年後、「もう一度やり直す道がある」という友人からの電話にカブールへ旅立つー。
自らを救う道を真に問う、心を揺さぶる救済の物語。

1970年代半ば以降のアフガニスタンの歴史に沿ってこの物語は展開する。著者のカレード・ホッセイニは1965年カブール生まれ(ベイエリア在住)だけに、ソ連侵入以前の、子供が子供らしくあった幸福なアフガン、タリバン侵入後の、荒廃しきったカブールの街の描写力が的確なんだろう、もう、情景がリアルに迫ってくる。
僕はずーっと堪えていたけど、一度だけ、堪えられなかったよ。

邦題は原題通りではなく、直訳の「凧追い」で良かったんじゃないかと思う。その方が実感として馴染むものがあったと思うのだけど。
それにしても、2006年翻訳が出たばかりなのに、中古で5,000円って....

カイト・ランナー
アーティストハウスパブリッシャーズ
カーレド ホッセイニ(著)Khaled Hosseini(原著)佐藤 耕士(翻訳)
発売日:2006-03
おすすめ度:5.0

●追記
1月8日付けの町山智浩のブログエントリ「君のためなら千回でも」で、小説が改題されていたことを知った。映画にあわせて変えられてしまったんですね。それなら5,000円の謎も解ける。「カイト・ランナー」が絶版になった、ってことなのだろう。それならしかたない。
しかし映画の原題は元の小説のまま、"The Kite Runner" だ。配給会社は原作をしっかり読んでタイトルを決めたのだろうけど、それで「君のためなら千回でも」じゃあ、あざとすぎるような気がする。商売根性まるだし。原作のことを何も考えなければ、そりゃ「君のためなら千回でも」のほうが(特に原作を読んでいない)客に訴えるものは大きいに決まっている。
でも、この作品を象徴するのは「凧追い」だ。そのタイトルの持つ意味の深さと広さを見失っていやしないか?

あと、アメリカでこの映画が公開直前に公開延期になったのだけど、その理由に絶句する。

主役の少年たちを演じたアフガニスタン人の子役の家族が「このまま映画を公開しないで欲しい。我々は殺されるかもしれないから」と訴えたからだ。

 

January 7, 2008 in books | | Comments (0) | TrackBack

12/19/2007

『逆立ち日本論』養老孟司 内田樹

対談のベースになっているのは内田の「私家版・ユダヤ文化論」。養老がナビゲーター的立場で回しているけど、なにしろ相手は内田だ、脱線が甚だしく、まあ、とにかく面白い。それでないと対談にはならないのだけどね。語られるのは、ことば、身体論、日本政治論、全共闘など多岐に渡っているけど、とりあえずこのエントリではユダヤ文化の時間性についてひとつだけ引用。

内田 視覚と聴覚のズレの問題こそ、まさにユダヤ教思想の確信なんですよ。ご存じの通り、ユダヤ教では偶像を作ることが禁じられています。造形芸術は禁止なんです。神を空間的な表彰形式に回収することは絶対の禁忌なのです。というのはユダヤ教の宗教性の本質は時間性だから。ユダヤ教の場合、神と被造物のあいだの「時間差」、神の時間先行性こそが神性を構築しているわけですから、神を空間的表象にすると神性の本質的なところが消えてしまう。だから「神を見てはならない」と言われるのです。
(中略)
ユダヤ人の場合はそんなふうに造形芸術原理的に禁圧されていますから、いきおい信仰の表現が音楽に向かうことになります。音楽は聴覚の芸術、言い換えると、時間の芸術ということになりますね。
(中略)
「偶像を使ってはならない」「神を見てはならない」という禁忌があるのは、空間的、無時間的に神と人間との関係を考想してしまうと、神と被造物を隔てている絶対的な時間差が解消されてしまうからでしょう。ユダヤ教の視覚的なふるまいに対する執拗な禁忌は、宗教の本質をなす時間性を温存するためだというふうにぼくは解釈しています。
でも、ユダや教の信仰が徹底的に聴覚中心に体系化され、神を空間的に表象することをきびしく禁圧したことは、その一方で、非ユダヤ人にとっては耐え難いストレスでもあったのではないかとも思うのです。
人間はやはり空間的な表象形式の中で、世界を経験したい。世界が一望俯瞰される無時間モデルだと、人間はすごく安心できますから。安定した静止的な世界像を持ちたい人にとっては、ユダヤ教はその根源的な欲求を絶対に満たしてくれない宗教なわけです。
養老 音楽家でシャガールを好きな人が多いのはそういうことでしょうか。
内田 シャガールというのはユダヤ人でほとんど唯一の例外じゃないんでしょうか。「ユダヤ人画家」というのは本来形容矛盾なんです。ユダヤ人には伝統的に音楽や舞踏のような時間性を含んだ芸術表現以外は許されていないはずですから。シャガールがそれでもユダヤ人世界で許容されたのは、それが聴覚的な、
あるいは時間制をどこかにとどめた絵画だからではないでしょうか。たぶん、シャガールの絵からは音楽が聞こえるのです。

シャガールの絵画から音楽が聞こえるかどうかは別として(むしろセザンヌの方が音楽的だと感じますけど)、画家にユダヤ人が少ないのはこういう背景があるのですね、と今さらながら。音楽界、あるいは映画界ではユダヤ人が席巻しているだけに。複雑、ではないけど、絶望的に本質的なものを感じさせるエピソード。

 

December 19, 2007 in books | | Comments (0) | TrackBack

11/28/2007

浦和レッズ天皇杯初戦、代表監督の件、「サッカー茶柱観測所」えのきどいちろう著。

天皇杯初戦、浦和0-2愛媛。しかも駒場。
案の定、というよりこれはもう怒髪天を突く内容だったようで。ドン引きの相手の崩し方というテーマは、もう何度も言われていることなのだろうけど、そこまで言われていながら崩せないって....
疲労、相当みたいですね。マジで週末の最終戦がヤバい。

 

オシム監督の後を引き継ぐサッカー日本代表監督選考を、岡田武史氏で進めている件。
JFAの小野技術委員長は昨日、「これまでのオシム監督が築いてくださった土台の上に積み重ねてもらう」と発言しているが、それはもうオシムのサッカーではないことは明か。
本当に残念に思う。
順天堂の医療チームがオシムの意識を回復させつつある、ということだが、岡田に正式に決まる前に、オシム自身の口から本当の気持ちが聞きたいのは皆同じ気持ちだろう。

「サッカー茶柱観測所」(えのきどいちろう著)で、ジェフ時代にイビツァ・オシムと対談したパラグラフが素敵だ。ちょっと長いけど、引用。

 僕はビッグクラブのオファーをソデにし、ジェフで旋風を巻き起こしたイビツァ・オシム監督に感じ入っていた。経験と知恵で小が大に対抗する。その魅力を「配られたカードで勝負する」と表現した。ある映画からの引用だ。この世で配られるカードはあらかじめ不均衡な前提がある。富める者、アドバンテージを持ったものにはいい手札が集まる。それでもガッツのある人間は「配られたカードで勝負する」。それで泣き言を言うのであれば、ゲームに参加する資格がない。
 面白いことにイビツァ・オシムは烈火の如く怒りだした。その怒りのポイントは「サッカーはカードゲームとは違う」ということだった。サッカーとカードゲームの違いをいくつも挙げていく。これはもらったと思った。オシムさんのサッカー観だ。こちらが提示したカードゲームは単なる比喩だ。比喩ならオシムさんの得意技じゃないか。たとえば彼はよく人生をサッカーに例えるが、サッカーと人生だって違う。僕だってサッカーと人生の違いを10項目挙げられるぞ。
 そのとき、オシムさんが強調したサッカーとカードゲームの違いを紹介しよう。
「2のカードはずっと2のままだが、サッカーの選手は成長する」
オシムさんの剣幕が大変なものだったので、間瀬秀一郎通訳が「たとえが気に入らないみたいです」と助け舟をくれた。だけど、僕は感動していた。僕らがジェフに見てきたものは正にそのプロセスだ。

フツーのサッカーファンなら誰でも得心し、考えさせられ、微笑まずにはいられないフレーズがごろごろしている。この本、お勧め。

 

November 28, 2007 in books | | Comments (0) | TrackBack

10/31/2007

「走ることについて語るときに僕の語ること」

村上春樹の新作エッセイ。エッセイといってもその文体は村上の得意とする紀行文のもので、チャプターがかなり長い(軽妙洒脱なものを期待したらちょっと躓くかもしれない)。でもまあ、それだけにじっくり読める。結局はあっという間に読み終わるのだけど。

村上がその時走っている場所の、季節の描写が素敵だ。
たとえば、ボストン。学生たちがレガッタの練習に励み、女の子たちが芝生の上にビーチタオルを敷いてウォークマンやiPodを聴きながらビキニ姿で日光浴をし、毛の長い犬は脇目もふらずフリスビーを追いかけ、誰かがギター弾きつつニール・ヤングの古い歌を歌っている夏の後に、

しかしやがて、ニューイングランド独特の短く美しい秋が、行きつ戻りつしながらそれにとってかわる。僕らを取り囲んでいた深い圧倒的な緑が、少しずつ少しずつ、ほのかな黄金色に場所を譲っていく。そしてランニング用のショートパンツの上にスエットパンツを重ね着するころになると、枯れ葉が吹きゆく風に舞い、どんぐりがアスファルトを打つ「コーン、コーン」という固く乾いた音があたりに響く。そのころにはもう勤勉なリスたちが、冬ごもりのための食料を確保しようと、目の色を変えて走り回っている。
ハロウィーンが終ると、まるで有能な収税吏のように簡潔に無口に、そして確実に冬がやってくる。
(中略)
そして季節は川をとりまく植物や動物たちの相を確実に変貌させていく。いろんなかたちの雲がどこからともなく現れては去っていき、川は太陽の光を受けて、その白い像の去来をあるときは鮮明に、あるときは曖昧に水面に映し出す。季節によって、まるでスイッチを切り替えるみたいに風向きが変化する。その肌触りと匂いと方向で、僕らは季節の推移の刻み目を明確に感じとることができる。そんな実感を伴った流れの中で、僕は自分という存在が、自然の巨大なモザイクの中の微小なピースのひとつに過ぎないのだと認識する。川の水と同じように、橋の下を海に向けて通り過ぎていく交換可能な自然現象の一部に過ぎないのだ。(p123)

僕は走らない人だけど(走っても月に一度くらい、思い出したように)、休日にチャリをさーっと流すのは昔から好きだから、この感じは身にしみてよくわかる。そりゃ、走る人に比べたら見逃すものは多いだろうけど。
マラソンをやりたいと思ったことがない代わりに、トライアスロンをやりたくてちょっと真剣にトレーニングし始めたことがあったのだけど、じきに仕事が猛烈に忙しくなって挫折した。そういうこともあって、長距離を走ることには羨望がある。

2005年、村上はニューヨーク・シティ・マラソンのためのトレーニングをしていた頃、不意に右膝に不安を抱えることになる。このあたり、村上春樹の真骨頂ともいうべき描写。

10月29日、レースの1週間前。朝からちらほらと小雪が舞って、昼過ぎから本格的な雪になる。ついこのあいだまで夏のようだったのにな、と感心してしまう。これがニューイングランドの気候だ。僕は大学のオフィスの窓から、湿った雪片が降りしきる光景を眺めている。身体の調子は悪くない。練習の疲れがたまっているときは、足が重くよろよろとしか走り始められなかったのだが、最近は軽い感じでスタートできるようになった。足の疲れがうまく抜けてきたらしいことがわかる。走っていても「もっと走りたいな」という気持ちになってくる。
しかしそれにもかかわらず、やはり不安は去らない。僕の目の前を一瞬よぎった暗い影は、本当にどこかに消えてしまったのだろうか? それは今でもこの身体のどこかに潜伏し、出番をじっと狙っているのではあるまいか? 屋敷の人目につかない場所に身を隠し、息をひそめて家人が寝静まるのを待ち受けている巧妙な盗人のように。僕は自分の身体の内部を、目をこらしてのぞきこんでみる。そこにあるかもしれないものの姿を見定めようとする。しかし僕らの意識が迷路であるように、僕らの身体もまたひとつの迷路なのだ。いたるところに暗闇があり、いたるところに死角がある。いたるところに無言の示唆があり、いたるとろに二義性が待ち受けている。(p179〜)

今年のニューヨーク・シティ・マラソンは今週末。
走りたくなってきた。

p.s.
ランナーの土佐礼子さんからTB入って、びっくり。これは村上春樹からのTB(もちろん無いけど)より嬉しいかもしれない(笑)

 

 

October 31, 2007 in books | | Comments (0) | TrackBack