歌川国芳、森山大道、青木繁、フェルメール。
この春から行った展覧会のこと、4本。
遅すぎるけど覚え書きとして1本ずつ。
▶歌川国芳展、大阪市立美術館。
気がついたら最終日で、あわててチャリかっ飛ばして行った。
これだけの量の浮世絵を一度に観るのは初めて。
度肝抜かれた。なんとまあ自在で濃密なイマジネーション。ユーモア。
音楽、文学、美術、映画、何でもそうだけど、基礎ができていたらあとどれだけ冒険できるか、イマジネーションが大きな鍵になってくるのだろうけど、それを分かっていても超越している。
五代目市川海老蔵等の歌舞伎絵とか商業的な要素が大きいのはあるにしても、観る人がどう反応するか思いながら筆を取っていたとしか思えないユーモアの散りばめ様、その闊達さ。
アドレナリン噴出しちゃいますね。
▶森山大道展、国立国際美術館。
近所なので、チャリでさーっと行ってきた。開催第1週目の土曜だったのでごった返してるかなと午前の早いうちを狙ったのだけど、閑古鳥鳴いていてびっくりした。それほど注目もされてないんでしょうか。知る人ぞ知る、の域を出ない写真家なのかなー。。今月19日までやっているから、もう一回行こうか。世界報道写真展見逃しちゃったし。
実のところフィルム写真のことはよく知らないし、長いこと撮ってもいない。シンディ・シャーマン、メイプルソープやブルース・ウェバーを集中的に観ていた時期もあったけど、その程度。日本ので写真集を持っているのはアラーキーのだけ。で、特に期するものは何もなかったのですが---
感じたのは飢餓感と、妙だけど虚無感。特に最近の作品に。
70年代のものには寺山的な望郷や、どこか病んでいるようでもあるけどポジティブな熱病みたいなものが感じられた。実際、そういう時代だったんだろう。もう今さら失うものは何も無い、疾走感のある日常。
80年代の狂乱と迷走を抜けてそれ以降、焦燥もない、ただの糜爛した後の覇気の無い飢餓感と虚無感の同居したフラグメントばかり。
もちろんそれは森山が写し取る時代がそのままそういう時代なわけで、ぞっとしたりもする。同時に、こういう空気をフィルムに収める技量に絶句する。
技量なのか?感性だけじゃないのか。よくわからない。
まだ荒木経惟の厚みのある空気感というか、湿度が好きだったりするけど、311の悲劇を抜けて森山が切り出す時代に豊穣が兆してくれたら良いなと思うし、そういう写真を観たいとも思う。
▶青木繁展、京都国立近代美術館。
青木の作品を美術館で観るのはたぶん初めてだと思う。20年以上焦がれていた。クリムトとかロセッティ、J.E.ミレー、ウォーターズあたりのラファエル前派に親しむ傍らで、19世紀末ヨーロッパ芸術に触発されていた数少ない日本の作家の一人としてとても気になっていたのだけども。
「黄泉比良坂」のムンク然とした暗さにニヤニヤせずにいられなかったけど、やっぱり「わだつみのいろこの宮」「海の幸」が突出していた。この2本で昇華しきってしまったんじゃないかと思えるくらい。人生においてユーモアの関わる部分でとても不器用だったんじゃないのだろうか。
「大穴牟知命」(オホナムチノミコト)のような佳品もあるので、日本神話世界に徹して描きつづけていれば… とも思ったりするけど詮無いか。
もう一度主要作品だけでも観て、「わだつみのいろこの宮」についてちょっと思いを巡らしてみたい。
▶フェルメール展、京都市立美術館。
ここ10年くらい世界的に沸騰している感のあるフェルメール作品だけど(映画も加勢したか)、一点も観ていないあまのじゃくっぷり。キュレーションが気に入らなかったからこの「フェルメールからのラブレター展」も観るつもりはなかったのだけど、平日昼間に時間がとれたので、ふらーっと行ってみた。レンブラント直前の時期の作品が集まっているようでもあるし、デルフトの画家の作品が観られるのなら、と。
出品されていたのは40点余り。ヤン・ステーンとかヘリット・ダウとかレンブラントの弟子の作品の光の描写の仕方にふむふむなるほど… とうなずいてみたりもいたのだけど、最後のフェルメールの3点で茫然と立ち尽くした。
いやもう立ち尽くすってか入場制限入っててごった返していたからそれどころじゃなかったんだけど、いやもう。
他の一切を圧倒していた。同時代のオランダの画家たちは叩きのめされて、ただ淡々と日々の糧を得るためにだけ描くしかなかったろう。
フェルメールという画家について知ったのは25年ほど前浅田彰が「ヘルメスの音楽」で一編割いていたのを読んだのが最初だったのだけど、この展覧会での3作品を観て、いろんなことが腑に落ちた。光、とはそういうふうに描くものなのだ。
椅子に打った鋲に滴のように落ちた光、幾多の髪飾りに宿る光、インク壺の器をなでる光、衣服の襞をそっと逃げていくような柔らかい光。
いやだからそれはただ反射しているだけなんだけど、絵画として人の目に捕らえられて記憶に残る光とは、ただ厳然とそこに存在しているものなのだなー、と思うしかなかった。
「手紙を読む青衣の女」のウルトラマリンブルーを使った青のグラデーションも確かにきれいだったけど、そういう「存在する光」が湛える時間と、その静謐さに心打たれた。
「手紙を書く女」の髪留めのリボンにそよぐ光、「手紙を書く女と召使い」の完璧無比な構図(完璧って、あるんですね…)、どの3作品にも共通する、二の腕の骨格描写の確かさ(確か、としか言い様が無い)、三様に手紙をしたためる静けさの中で、思わずにいられないうっすらと表出してくる彼女たちの感情のこと。
絵画を観るというのはとても難しいことだけど、本当に驚きました。
September 7, 2011 in art | Permalink | Comments (0) | TrackBack