ピナ・バウシュ、表現の根底にあるもの。
先日録画していた、昨年の京都賞授与式に来日したピナ・バウシュと浅田彰の対談「ピナ・バウシュ ダンスも演劇も超えて」をやっと観る。
僕がピナ・バウシュ&ヴッパタール舞踏団の舞台を観たのは1986年のことで、モダンダンスの「モ」の字も知らなかった頃。でも、そのちょっと前にフェリーニの「そして船は行く」でピナはとても印象に残る演技をしていて、その浮遊するような不思議な存在感に惹かれていたので、ぜひとも観たいと思っていた。
当時の大阪での演目は「コンタクトホーフ」のみで、今になって思えば「カフェ・ミュラー」「春の祭典」を東京では演っていたことに嫉妬を覚えてしまう(笑)
テレビでの浅田との対談はどうでもよかったのだけど、ひとつ印象に残ったのは、ピナがとてもインタビューが苦手で、その理由が「表現することはすべてダンスの中にあるから。(ダンスでの表現でない限り)正しい表現を見つけられないことを恐れています」というようなことだった。
考えてみればあたりまえのこと。生粋のダンサーであり、コリオグラファーなのだから。
1999年の来日公演の時のパンフレットに浅田が書いている。(参照)
彼女は、パフォーマーのひとりひとりに問いを投げかけ、過去の情動的な体験を再現するように求める。悲しかったときどのように泣き、喜んだときどのように笑ったか。ただし、何が原因で悲しんだり喜んだりしたのかは問われない。このようにして、物語的な意味から切り離された情動、つねに中間状態にある純粋状態の情動がサンプリングされ、他の情動とモンタージュされて、複雑なダイナミクスを作り上げていくのである。こうした手法が突き詰められていくとき、一定の物語はおろか、一定の音楽さえなしに、ひとつのパフォーマンスが構成されるようになるだろう。それは、当然ながら、特定の意味をもたず、物語として完結することがない。にもかかわらず、甘美にして残酷な情動のスペクトルによって、観る者を圧倒するのである。
ピナとダンサーの間の会話にもとくに意味はない。ただ情動を引き出すためにある会話。その過程の濃密さを思うだけで酔いそうになる。
次に観る機会を得た時、何を感じるのだろう。
February 15, 2008 in art | Permalink
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うわ、そんなのをテレビでやっていたんですか。
来月2公演行って参ります!
去年は楠田絵里子様の隣の席。別の公演では、帰りにロビーで隣に立っていたのが浅田彰とその知人。生浅田彰講演会だ!と思いながら、彼の感想を拝聴しました。
そんなにダンスは見ないのですが、ピナの公演は理解しようと思わずにいられるとこが好きです。刺激があるというより(あるのですが)、自分にとっては何かを生む媒介として無限性を感じるものです。それが情動なのかもしれないし、あたしの場合はそこまではっきりとわからないのですが、それが貴重な体験であることに違いない。そんな感じです。
Posted by: タコ | 19 Feb 2008 08:40:51
>タコさま
2公演観るんですか。....嫉妬してます(笑)
「理解しようと思わずにいられる」というのがいいですね。僕が観た頃って、そんな余裕もなかったような気がします。逆に理解しようしようと焦っている感じで。今ならそんなこともないだろうけど。
そういう意味で「理解しようと思わずにいられる」のは羨ましすぎます。
公演の感想エントリ、期待してますね。^^
Posted by: kiku | 20 Feb 2008 01:08:35