09/07/2011

歌川国芳、森山大道、青木繁、フェルメール。

この春から行った展覧会のこと、4本。
遅すぎるけど覚え書きとして1本ずつ。

▶歌川国芳展、大阪市立美術館。
気がついたら最終日で、あわててチャリかっ飛ばして行った。
これだけの量の浮世絵を一度に観るのは初めて。

度肝抜かれた。なんとまあ自在で濃密なイマジネーション。ユーモア。
音楽、文学、美術、映画、何でもそうだけど、基礎ができていたらあとどれだけ冒険できるか、イマジネーションが大きな鍵になってくるのだろうけど、それを分かっていても超越している。
五代目市川海老蔵等の歌舞伎絵とか商業的な要素が大きいのはあるにしても、観る人がどう反応するか思いながら筆を取っていたとしか思えないユーモアの散りばめ様、その闊達さ。

アドレナリン噴出しちゃいますね。

Utagawakuniyoshi




▶森山大道展、国立国際美術館。
近所なので、チャリでさーっと行ってきた。開催第1週目の土曜だったのでごった返してるかなと午前の早いうちを狙ったのだけど、閑古鳥鳴いていてびっくりした。それほど注目もされてないんでしょうか。知る人ぞ知る、の域を出ない写真家なのかなー。。今月19日までやっているから、もう一回行こうか。世界報道写真展見逃しちゃったし。

実のところフィルム写真のことはよく知らないし、長いこと撮ってもいない。シンディ・シャーマン、メイプルソープやブルース・ウェバーを集中的に観ていた時期もあったけど、その程度。日本ので写真集を持っているのはアラーキーのだけ。で、特に期するものは何もなかったのですが---

感じたのは飢餓感と、妙だけど虚無感。特に最近の作品に。
70年代のものには寺山的な望郷や、どこか病んでいるようでもあるけどポジティブな熱病みたいなものが感じられた。実際、そういう時代だったんだろう。もう今さら失うものは何も無い、疾走感のある日常。
80年代の狂乱と迷走を抜けてそれ以降、焦燥もない、ただの糜爛した後の覇気の無い飢餓感と虚無感の同居したフラグメントばかり。
もちろんそれは森山が写し取る時代がそのままそういう時代なわけで、ぞっとしたりもする。同時に、こういう空気をフィルムに収める技量に絶句する。
技量なのか?感性だけじゃないのか。よくわからない。

まだ荒木経惟の厚みのある空気感というか、湿度が好きだったりするけど、311の悲劇を抜けて森山が切り出す時代に豊穣が兆してくれたら良いなと思うし、そういう写真を観たいとも思う。

Moriyama07




▶青木繁展、京都国立近代美術館。
青木の作品を美術館で観るのはたぶん初めてだと思う。20年以上焦がれていた。クリムトとかロセッティ、J.E.ミレー、ウォーターズあたりのラファエル前派に親しむ傍らで、19世紀末ヨーロッパ芸術に触発されていた数少ない日本の作家の一人としてとても気になっていたのだけども。

「黄泉比良坂」のムンク然とした暗さにニヤニヤせずにいられなかったけど、やっぱり「わだつみのいろこの宮」「海の幸」が突出していた。この2本で昇華しきってしまったんじゃないかと思えるくらい。人生においてユーモアの関わる部分でとても不器用だったんじゃないのだろうか。
「大穴牟知命」(オホナムチノミコト)のような佳品もあるので、日本神話世界に徹して描きつづけていれば… とも思ったりするけど詮無いか。

Aoki03

もう一度主要作品だけでも観て、「わだつみのいろこの宮」についてちょっと思いを巡らしてみたい。



▶フェルメール展、京都市立美術館。
ここ10年くらい世界的に沸騰している感のあるフェルメール作品だけど(映画も加勢したか)、一点も観ていないあまのじゃくっぷり。キュレーションが気に入らなかったからこの「フェルメールからのラブレター展」も観るつもりはなかったのだけど、平日昼間に時間がとれたので、ふらーっと行ってみた。レンブラント直前の時期の作品が集まっているようでもあるし、デルフトの画家の作品が観られるのなら、と。

出品されていたのは40点余り。ヤン・ステーンとかヘリット・ダウとかレンブラントの弟子の作品の光の描写の仕方にふむふむなるほど… とうなずいてみたりもいたのだけど、最後のフェルメールの3点で茫然と立ち尽くした。
いやもう立ち尽くすってか入場制限入っててごった返していたからそれどころじゃなかったんだけど、いやもう。
他の一切を圧倒していた。同時代のオランダの画家たちは叩きのめされて、ただ淡々と日々の糧を得るためにだけ描くしかなかったろう。

フェルメールという画家について知ったのは25年ほど前浅田彰が「ヘルメスの音楽」で一編割いていたのを読んだのが最初だったのだけど、この展覧会での3作品を観て、いろんなことが腑に落ちた。光、とはそういうふうに描くものなのだ。
椅子に打った鋲に滴のように落ちた光、幾多の髪飾りに宿る光、インク壺の器をなでる光、衣服の襞をそっと逃げていくような柔らかい光。
いやだからそれはただ反射しているだけなんだけど、絵画として人の目に捕らえられて記憶に残る光とは、ただ厳然とそこに存在しているものなのだなー、と思うしかなかった。
「手紙を読む青衣の女」のウルトラマリンブルーを使った青のグラデーションも確かにきれいだったけど、そういう「存在する光」が湛える時間と、その静謐さに心打たれた。

「手紙を書く女」の髪留めのリボンにそよぐ光、「手紙を書く女と召使い」の完璧無比な構図(完璧って、あるんですね…)、どの3作品にも共通する、二の腕の骨格描写の確かさ(確か、としか言い様が無い)、三様に手紙をしたためる静けさの中で、思わずにいられないうっすらと表出してくる彼女たちの感情のこと。

絵画を観るというのはとても難しいことだけど、本当に驚きました。

Vermeer09

September 7, 2011 in art | | Comments (0) | TrackBack

05/16/2008

自傷系アートの行方 ー松井冬子ー

Matsui_03 先月 NHK でやっていた、日本画家・松井冬子の特集「痛みが美に変わる時〜画家・松井冬子の世界〜」の録画をやっと観ることが出来たので、覚え書き的に。
僕個人としては上野千鶴子がラストにインタビュアーとして出てきたのがウザかったんだけど、考えさせられるところも突っ込みどころも多く、松井のキャラクターも併せて概ね楽しめた。

番組タイトルの通り、松井は幼い頃に暴力的なことで被った肉体的な「痛み」を、あるいはその記憶を、さらには傷つけられたことから来るトラウマをモチベーションとして作品を描き続けてきた。そういったものを連想させるものを描いてきたのは、暴力の向こう側に見えてくるもの、そこにある(人と人との)関係性を描きたかったからだ、と本人も言っている。

が、見ているとどうも、今ではたまたまその題材がいわゆる「自傷系アート」と形容されるテイストを持ち併せているだけのことで、松井本人としては苦痛、痛み、あるいはそれを被らせた対象への呪詛、そういったものを描いているのだと評されることについてはもう、倦んでいるようにも感じられた。確かに初期の頃の動機にはそれもあっただろうけど、もう、動機を超えて、描きたいことそのものとなっている、そんな気がした。あるいはが、技術も含めて日本画そのものの追求の手段として描き続けているのではないか、と。
そのあたり、ストイックな姿勢を感じないでもない。Matsui_01

彼女の作品を鑑賞することに、たいていの男は抵抗を覚える、それは狙いどおりだと本人も笑って告白していたが、そういうどこか復讐めいたもくろみは、もう、どうでもいいじゃないか、と言いたくなるほど(テレビで観ていても)凄絶で、静謐を湛え、素晴らしい。
また、それを描いているのがこれだけの美人だ、というのも男を引かせる要因の一つだという風潮(笑)もあるけど、いやー、今後どれだけの作品を僕らが目の当たりにできるのか、そして、自傷系などと冠されることの無意味さを知らしめる作品を彼女がいつモノにするのか、期待せずにいられない。
Matsui_02

 

May 16, 2008 in art | | Comments (0) | TrackBack

02/15/2008

ピナ・バウシュ、表現の根底にあるもの。

Pina 先日録画していた、昨年の京都賞授与式に来日したピナ・バウシュと浅田彰の対談「ピナ・バウシュ ダンスも演劇も超えて」をやっと観る。
僕がピナ・バウシュ&ヴッパタール舞踏団の舞台を観たのは1986年のことで、モダンダンスの「モ」の字も知らなかった頃。でも、そのちょっと前にフェリーニの「そして船は行く」でピナはとても印象に残る演技をしていて、その浮遊するような不思議な存在感に惹かれていたので、ぜひとも観たいと思っていた。
当時の大阪での演目は「コンタクトホーフ」のみで、今になって思えば「カフェ・ミュラー」「春の祭典」を東京では演っていたことに嫉妬を覚えてしまう(笑)

テレビでの浅田との対談はどうでもよかったのだけど、ひとつ印象に残ったのは、ピナがとてもインタビューが苦手で、その理由が「表現することはすべてダンスの中にあるから。(ダンスでの表現でない限り)正しい表現を見つけられないことを恐れています」というようなことだった。
考えてみればあたりまえのこと。生粋のダンサーであり、コリオグラファーなのだから。

1999年の来日公演の時のパンフレットに浅田が書いている。(参照

彼女は、パフォーマーのひとりひとりに問いを投げかけ、過去の情動的な体験を再現するように求める。悲しかったときどのように泣き、喜んだときどのように笑ったか。ただし、何が原因で悲しんだり喜んだりしたのかは問われない。このようにして、物語的な意味から切り離された情動、つねに中間状態にある純粋状態の情動がサンプリングされ、他の情動とモンタージュされて、複雑なダイナミクスを作り上げていくのである。こうした手法が突き詰められていくとき、一定の物語はおろか、一定の音楽さえなしに、ひとつのパフォーマンスが構成されるようになるだろう。それは、当然ながら、特定の意味をもたず、物語として完結することがない。にもかかわらず、甘美にして残酷な情動のスペクトルによって、観る者を圧倒するのである。

ピナとダンサーの間の会話にもとくに意味はない。ただ情動を引き出すためにある会話。その過程の濃密さを思うだけで酔いそうになる。
次に観る機会を得た時、何を感じるのだろう。

 

February 15, 2008 in art | | Comments (2) | TrackBack