サントリー伊右衛門の豆巾着は iPhone のための。
March 20, 2009 in apple | Permalink | Comments (0) | TrackBack (0)
イーストウッドの最高峰は「サンダーボルト」('74年、マイケル・チミノ監督)なわけで、最近の「ミスティック・リバー」「ミリオンダラー・ベイビー」はエンタテイメント性にも溢れ、考えさせられることも多いヘヴィな作品だったけど(硫黄島2部作は未見)例えばアルトマンやポール・ハギス(監督)の作品のように構成を楽しめる作品ではないしもう一度観たいと思わせる何かを持っている作品でもない。
結局は、ハリウッド映画の枠を出ることはなく、愛国主義者の幻想の拡大を主導しているだけのことだ。「許されざるもの」以来、物語表現(語り口)の磨かれ方は尋常ではないが、映画は映画でしかない、という諦観もそこかしこに滲んでいるように思える。それは多分イーストウッドがドン・シーゲル、あるいはセルジオ・レオーネを師と仰いできたことの因縁であるような気もする。
で、「チェンジリング」。主役はアンジェリーナ・ジョリーだし(アンジェリーナ・ジョリーの出演作はDVDで「17才のカルテ」「Mr. & Mrs. スミス」をちらっと観ただけ)、食指の動く要素は何もひっかかってこない。それ以前にここ数ヶ月映画からずっと離れててこの映画に関する情報は主役が彼女というだけで監督が誰なのかも知らなかった!
それをなぜ観る気になったのか。ネット某所で「チェンジリング」に関しての、黒沢清の吐露めいたものを読んだから、でした。
「イーストウッドは小津安二郎に近づいているのではないか。
イーストウッドがただ一人小津安二郎に近づいているとしたら、映画はいま正に黄金時代を迎えようとしているのではないだろうか」
という文章。
それがまさに正解なのかあるいは大いなる勘違いなのか、確かめなきゃ、と衝動的に。
結局、クリント・イーストウッドはクリスティン(アンジェリーナ・ジョリー)の最後の台詞「希望」という言葉をどう表現するかに心を砕き、綴り続けることしかできない映画作家だ。それを導く物語表現においてはちょっと他に追随を許さない、ソフィスティケイトされたものを持っているのは確かけど、少なくとも必死に社会を生きている者に必ずついてまわるはずのシニカルさが欠落していて、人間存在を見つめる部分ではどうも茫洋としてしまう。テーマが先行し、醜悪さが描かれる部分では「ミスティック・リバー」同様、「この辺までにしておこう」というスタンス。たぶんそれがイーストウッドという人間の優しさなのだろうけど。
黒沢清が呟いた「小津安二郎」と「黄金時代を迎えようとしている」という言葉は、この映画の美術と衣装、メーキャップについてのことだったのだろうかと少し気が抜けた感じです。
殺人犯役のジェイソン・バトラー・ハーナー怪演。アル・パチーノ主演の「セント・オブ・ウーマン」での、フィリップ・シーモア・ホフマンという役者を初めて見た時を超える衝撃でした。
良心的な刑事を演じたマイケル・ケリー、王道的な配役だったと思います。
撮影のトム・スターンは、イーストウッド組の金字塔的仕事だったのでしょうか。あの時代の空気はこういうものか、と楽しめました。
March 15, 2009 in films | Permalink | Comments (2) | TrackBack (0)