上祐史浩のマイmixiに足跡を残していく者。
当時阪神大震災の余震こそ消えていたけど考えることがあってでそれどころじゃなかったから、というわけでもないけど、オウム真理教の地下鉄サリン事件は僕には遠い映像にしか過ぎなかった。沿線近くに弟の勤め先があったから実家に電話したけど大丈夫だったみたいよ、といっていたし。今から思えば上一色村に向かう鳥かごを持った警官隊の映像は、米軍のイラクへのピンポイント爆撃映像より映像でしかなかった。それだけ現実離れしていた、ってことだけど。
僕らが人間であるからという理由において、戦争はテロリズムよりは人間の愚かしさが見えてきやすいように思う。語弊があるかもしれないけど、近しい、という印象がある。僕らも愚かさの一部だ。歴史の途上にある以上、当事者とはいつもどこかでつながっている。
地下鉄サリン事件にはそんな感慨のかけらもなかった。あまりにも非日常だった。愚かさ、なんて言葉を出すのも愚かしく、いかがわしかった。そして、妙に遠い感じもあった。宗教に端を発した事件だから、だったのだろうか。
上祐史浩が mixi に登場したというニュースには、サリン事件以上に非日常な感覚を覚えた。だけど、それもありだなとも思った。ネットの持つ可能性とはそういうものだし。今後の宗教のあり方なんて考えたくもないけど、イメージはしやすい。宗教とはそういうものだったりする。歴史が語っているとおり煽動しやすいシステムだし、ネットを利用していかようにも展開できる。誰にとってもそうである以上に、そちら側(宗教関係者)にとって web 媒体は魅惑的だろう。
アーレフのオフィシャルサイトのことは知らないし(あったの?)、ここ数年、どういう発言をしてきたのかも知らないけど、このタイミングで上祐がネットに出てきたのは遅いといってもいいくらい。 あるいはSNSというシステムが熟してくるのを待っていたのか。
共同体という意味ではSNSも宗教も一緒か。
それはともかく上祐が mixi 上で何をどう発言していくかということより、上祐のマイ mixi にあしあとを残していく者の、もっと言えばコメントを残していく者たちの意図のほうが気にかかる。ただの好奇心とひやかしだけで済ませるわけにはいかない対象に、それで済むことを可能にしているネットのなかで、何を聞くのだろう?
事件の被害者とその家族に mixi の会員はいるのだろうか。もしいるなら、その人の声が聞きたいと思う。真っ向から、上祐にどういうつもりでいるのか聞きたいことを聞き、求めるべきものを求めるべきだと思う。リアルに触れる、というのはそういうことじゃないのかな、と思ったりするネット漬けの今日この頃。
参考
→滝本弁護士の日記
→上祐史浩公式HP
→J-castニュース
→(番外)finalventの日記(ちょっと面白い)
March 18, 2007 in news | Permalink
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