ライフ・アフター・ゴッド/ダグラス・クープランド
クープランドの小説をまじめに読んだことはないのだけど、最近ウチの相方が原書を数冊購入して読む気満々のようなので、僕もちょっと読み返してみる気になり図書館から2冊(もちろん翻訳)、「ライフ・アフター・ゴッド」と「マイクロサーフス」を借りてきた。
画像は相方が購入した「Jpod」の原書。ちょっと根気がいりそう。
ニュー・ロスト・ジェネレーションあるいはジェネレーションXの文学と言われているけど、日本文学でこれに相応する作品はあるのだろうか。90年代以降のものはほとんど読んできていないので断言できないけど、各時代の喪失感とその果てで主人公がさらに彼方を見据えた、W村上が代表するような小説以降、シーンらしいシーンが出現していないから、多分、無いのだろう。
っつうか、太宰の「無頼派」以降、シーンを特徴付ける表現が見当たらない。三島にしても、吉行にしても石原にしても「戦後派」と括られるだけで、その文学自体を特徴付けるものはないような気がするけど、どうなのだろう。
ニュー・ロスト・ジェネレーションには行為に伴う目的が無い。もっといえば、「行為」自体が無い。消費の果てで三無主義に徹している(もちろんそこに意志はない)のだからそれもそうだろう。(それにくらべればジェイ・マキナニーに代表されるロスト・ジェネレーションの方がまだ体温を感じられる。)
正直なところ、だからこそ読みにくい。シンパシーが感じられないから、その物語世界に入っていけないし、集中して読むのが難しい。
でもまあ、そこは読み方次第。エッセイとアフォリズムが入り交じったものととれば、そう、サーフするように読める。また、クープランド自身も小説界における自分の立ち位置を了解しているのだろう、時折挟まれる、ふと人生を見つめたときの警句めいたフレーズがめちゃくちゃカッコ良かったりもする。シニカルだしね。
例えば、短編集「ライフ・アフター・ゴッド」の中の「ゲティスバーグ」から。
若い時は、いつまで経っても、自分の人生だけは、まだまだ本格的に始動していない気がするものだ。人生は、いつまで経っても、次の週、次の月、次の年、そして次の休暇が終わってからやってくるもので、いつかずっと先に起こる出来事でもあるかのように思い込んでいる。それでも、いつしか突然、歳をとってしまい、予定していた人生などやってこないことにも気づく。そこでようやく自問自答を始めるようになる。「それなら、それまで存在してきたあの間奏曲(インターリュード)は一体、騒然としたあの乱痴気騒ぎは一体、何だったんだろう?」(p120)
その小説の中に「行為」自体はないけど、なんか真摯なものがあるよなー、と思いつつ読んでいます。
February 2, 2008 in books | Permalink
TrackBack
TrackBack URL for this entry:
https://www.typepad.com/services/trackback/6a0120a841e0c2970b0120a841e804970b
Listed below are links to weblogs that reference ライフ・アフター・ゴッド/ダグラス・クープランド:
The comments to this entry are closed.
Comments