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11/01/2006

『ぼくを葬る』、ルイ・マルの『鬼火』

TSUTAYAの半額クーポンを利用してDVDとCDをごっそり借りる。
とりあえず今回はフランソワ・オゾンの『ぼくを葬る(おくる)』について。

オゾンの作品についてはかなり食わず嫌いなのだけどシャーロット・ランプリングの『まぼろし』はなんというか、触って欲しくないところを触られてしまった感じで記憶に残る映画。認めたくないけどそれ以来気になる映画監督で、他には『ふたりの5つの分かれ路』しか観ていなかった。

『ぼくを葬る』は末期の癌を抱えた30そこそこのカメラマン(ロラン)が自分の独善的で、刹那的な快楽を追ってばかりの代償として断絶してしまっていた家族(とくに幼子を抱えた姉)、幼少の頃からの恋人(ロランはゲイなので、恋人はもちろん男)、そして祖母(ジャンヌ・モロー!)と最後の別れを告げていく心の旅路を描いた映画。贖罪の意を込めた別れだけど最後まで自己中心的であることには変わりなく、最愛の祖母からの「化学治療を受けて頂戴」との嘆願も拒絶する。
40年も前の、モーリス・ロネの『鬼火』を思い出させるシチュエーションだけど、ルイ・マルは敬遠する人物造形だろうなー。

『鬼火』のなかで、虚無に打たれたアル中患者であり自殺志願者でもある主人公(モーリス・ロネ)が死の前に親しかった人々に会いに訪れることに特に意味はない。ないのだけど、会う人ごとに孤独感を深めて頽廃に染まるばかりで、麻薬中毒者グループの親玉(ジャンヌ・モロー!)に会うにいたってはその頽廃に羨望を感じさえし、シニシズムに浸ることになる。
一方オゾンの主人公ロランはまだ心的な救済の余地は残されている。その分、現実的だといえる。実際、偶然に知り合った不妊の夫婦から生殖行為の依頼を受け、自分がゲイである事実から飛躍するという救済にたどり着くのだから。

だからオゾンは好きになれない(笑)
小説家とか映画作家とか画家とか、表現者は何であってもそうだと思うのだけど、自己完結させちゃいけない。『鬼火』のモーリス・ロネにシンパシーを抱かないまでも心を奪われるのは結局、僕らが自分の抱える現実から離れるために映画を観るのだという証じゃないのか。

っつうか、『まぼろし』といい『ふたりの5つの分かれ路』といい、ラストシーンでの「浜辺」という場所にたいするこだわりはいったい何なのでしょうか?

November 1, 2006 in films |

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