『バベル』
ゴールデングローブ賞でもアカデミー賞でも(前評判の割には)惨敗といっていい結果だったけど、そういう賞を獲る必要のない映画、というのは存在すると思う。
傲岸ないい方かもしれないけど。
ギジェルモ・アリアガの脚本は、同じイニャリトゥ監督との『21g』ほどには練れていなかったし、映画的でもなかった。でもトミー・リー・ジョーンズとの『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』の抑制されたトーンの流れを汲んで『21g』以上に繊細。
この繊細から抽出すべきものをしっかり抽出させてここまで昇華させたイニャリトゥの演出力には言葉もない。ただ本を読んでテーマを押さえるだけで済むはずがなく、イニャリトゥはいったいどうやって俳優たちの演技を「バベルの神話」の提示する問題とその根源へ導いたのだろうか。荒れた粒子のフィルムはこれまでの作品同様、登場人物の心の襞をじかに触るように、映しとる。
この映画の中で唯一「バベル」の呪縛からあらかじめ解放されていた人物は、モロッコでの現地ガイドとその母親らしき女性だった。辺境の地に生きる人がそうだったというのも設定としてはありがちのように思えるけど、実際のところそういうものかもしれない。映画においてのアメリカとイスラム世界という構図はあるにせよ、モロッコ自体はほぼ単一の宗教国であり、公用語はアラビア語。アメリカのような混沌からはかけ離れている。通じ合うということの意味を考える必要のない土地。
銃弾に倒れた妻スーザン(ケイト・ブランシェット)への救助ヘリがやっと到着した時、夫リチャード(ブラッド・ピット)が、介護してくれたお礼にと差し出したお金を、「そんなことはいいんですよ」とばかりにかすかに照れた表情を見せて断った現地ガイドは確かにバベルの罠から解放されていた。それを知ったときの、一瞬にして驚愕と敬愛の情が交差したリチャードの表情はどうだ。
ブラッド・ピット、一世一代の名演といってもいいんじゃないか。
一方、菊池凛子演じるチエコの深淵。その舞台となる日本は、これまた隔絶されているといっていい辺境。宗教の問題を抱えてもいず、単一民族で、言語はもちろんひとつ。
だからこそ、バベルの犠牲となったチエコの心の極北には凄みがある。
真っ昼間から公園で、エクスタシーをウイスキーで飲み込んでハイになった勢いでみんなでクラブにくり出したシーン。ケミカルドラッグが切れていくにつれて、チエコは自分で自分の抱える底のない寂しさに愕然とすることになる。その心理状態の描写が秀逸だ。
その寂しさを晴らすために全裸になって間宮刑事にせまるわけだけど、彼女の深淵を解さない間宮には優しく拒絶することしかできない。チエコが間宮に渡したメモの内容は明らかにされなかったけど、当然何故あんな真似をしてしまったのか、自分の寂しさについて書かれていたのだろう。メモを読んだ間宮の、やりきれない思いと同時に交差するいつくしみの情。
でもまあ、きれいごとはやめておこう。通じ合えないのが人間。それを知って成長するのも、人間。
June 14, 2007 in films | Permalink
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Comments
チエコが公園で飲んだのがエクスタシーというやつなのですか(村上龍の小説でしか知りませんが)。それをウイスキーで流し込んだのなら、ドラッグとアルコールが切れかけたときの寂寥はすさまじいものでしょうね。小生、歳とともにアルコールを飲み過ぎた夜の寂寥が耐えられなくなり、そのせいでアルコールの量が減りました。
Posted by: 雄 | 19 Jun 2007 23:29:21
ピンク色だったのでエクスタシーだと思います。メンタルと聴覚機能の拡張作用があるはずなのですが、聾唖であるチエコにはそれが心だけに増幅されて効いてしまったのでしょうか。ちょっと想像しきれないです。
いつか晩酌のお相手したいものです(笑)
Posted by: kiku | 20 Jun 2007 23:24:47