04/03/2012

ドラゴン・タトゥーの女、デヴィッド・フィンチャー。

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「ミレニアム」3部作はこの年明けまでに全巻読み終えていたし、なによりフィンチャー作品なので昨夏から楽しみにしていた。カレン・O とトレント・レズナーの「移民の歌」の流れるトレイラーの小気味の良い編集っぷりにシビれてそれこそ矢も盾もたまらない感じ。もっともレッド・ツェペリンは全然聴いてこなかったのでそれが「移民の歌」のカヴァーだと知ったのはあとになって相方に教えられてのことだったけど。

ここまで原作(スティーグ・ラーソン)に忠実だとは、とびっくりしながら観ていたのだけど、このサスペンスのキーパーソンであるハリエットに関する結末だけが思い切り端折られた感じで、尺に収めるにはこう脚色するしかなかったのだろうなとちょっと笑えた。「ミレニアム」第2部「火と戯れる女」でもハリエットは相応に重要な役割を担って登場するから、そういう意味ではもしフィンチャーがこの続編を撮ることになれば、主人公たちの背景が導く小説独自の世界観そのままの映像化を期待する者にはちょっと厄介かもしれない。
小説は小説であって、フィンチャー映画は映画だし、続編以降は小説とは切り離して映像だけに集中した方がいいのだろうな。

デビュー作のエイリアン3から前作のソーシャル・ネットワークまでずっとそうだったように(「ベンジャミン・バトン」は未見)一貫して暗い色調で、といってそれ以外に例えばセブンのでのフィルム処理に見られるほど凝ったものがあるわけでもなく、他の北欧映画がそうであるように、単に光の屈折加減によるものだろうけど、スウェーデンの空気の青白さばかりが印象に残る。
変に演出過剰になってもいず、圧巻なのはそこはやっぱりフィンチャー、編集の人だなー、と再確認できた映画。

リスベット・サランデルが親愛の情を抱いていた後見人パルムグレンが脳梗塞で倒れたとき、見舞いに買ったのがボビー・フィッシャーの対局集であったりとか、あるいはミカエル・ヴィルムクヴィストがヘーデスタでの最初の夜、凍えながら暖炉に火をくべるときに1枚1枚破って燃やしていたのがヴォネガットの「国のない男」だったりとか、どちらも原作に無かったはずだし(無かったよな?...)、このあたりはフィンチャーの遊び心だろうか。
でも第2部「火と戯れる女」でリスベットがフェルマーの最終定理にハマった資質を、フィンチャーがボビー・フィッシャーに代えたのだとしたら、原作ファンはどう反応するのだろう。単にパルムグレンとチェスをするから、だけの理由だったのだろうか。
うがちすぎかな。

ダニエル・クレイグ、好演。他には007しか観たことないのだけど、いい役者だなー。

というわけで(たいした脈絡も無いけど)「セブン」DVDを10数年ぶりに観返してみた。

April 3, 2012 in films | | Comments (0) | TrackBack (0)

09/07/2011

歌川国芳、森山大道、青木繁、フェルメール。

この春から行った展覧会のこと、4本。
遅すぎるけど覚え書きとして1本ずつ。

▶歌川国芳展、大阪市立美術館。
気がついたら最終日で、あわててチャリかっ飛ばして行った。
これだけの量の浮世絵を一度に観るのは初めて。

度肝抜かれた。なんとまあ自在で濃密なイマジネーション。ユーモア。
音楽、文学、美術、映画、何でもそうだけど、基礎ができていたらあとどれだけ冒険できるか、イマジネーションが大きな鍵になってくるのだろうけど、それを分かっていても超越している。
五代目市川海老蔵等の歌舞伎絵とか商業的な要素が大きいのはあるにしても、観る人がどう反応するか思いながら筆を取っていたとしか思えないユーモアの散りばめ様、その闊達さ。

アドレナリン噴出しちゃいますね。

Utagawakuniyoshi




▶森山大道展、国立国際美術館。
近所なので、チャリでさーっと行ってきた。開催第1週目の土曜だったのでごった返してるかなと午前の早いうちを狙ったのだけど、閑古鳥鳴いていてびっくりした。それほど注目もされてないんでしょうか。知る人ぞ知る、の域を出ない写真家なのかなー。。今月19日までやっているから、もう一回行こうか。世界報道写真展見逃しちゃったし。

実のところフィルム写真のことはよく知らないし、長いこと撮ってもいない。シンディ・シャーマン、メイプルソープやブルース・ウェバーを集中的に観ていた時期もあったけど、その程度。日本ので写真集を持っているのはアラーキーのだけ。で、特に期するものは何もなかったのですが---

感じたのは飢餓感と、妙だけど虚無感。特に最近の作品に。
70年代のものには寺山的な望郷や、どこか病んでいるようでもあるけどポジティブな熱病みたいなものが感じられた。実際、そういう時代だったんだろう。もう今さら失うものは何も無い、疾走感のある日常。
80年代の狂乱と迷走を抜けてそれ以降、焦燥もない、ただの糜爛した後の覇気の無い飢餓感と虚無感の同居したフラグメントばかり。
もちろんそれは森山が写し取る時代がそのままそういう時代なわけで、ぞっとしたりもする。同時に、こういう空気をフィルムに収める技量に絶句する。
技量なのか?感性だけじゃないのか。よくわからない。

まだ荒木経惟の厚みのある空気感というか、湿度が好きだったりするけど、311の悲劇を抜けて森山が切り出す時代に豊穣が兆してくれたら良いなと思うし、そういう写真を観たいとも思う。

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▶青木繁展、京都国立近代美術館。
青木の作品を美術館で観るのはたぶん初めてだと思う。20年以上焦がれていた。クリムトとかロセッティ、J.E.ミレー、ウォーターズあたりのラファエル前派に親しむ傍らで、19世紀末ヨーロッパ芸術に触発されていた数少ない日本の作家の一人としてとても気になっていたのだけども。

「黄泉比良坂」のムンク然とした暗さにニヤニヤせずにいられなかったけど、やっぱり「わだつみのいろこの宮」「海の幸」が突出していた。この2本で昇華しきってしまったんじゃないかと思えるくらい。人生においてユーモアの関わる部分でとても不器用だったんじゃないのだろうか。
「大穴牟知命」(オホナムチノミコト)のような佳品もあるので、日本神話世界に徹して描きつづけていれば… とも思ったりするけど詮無いか。

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もう一度主要作品だけでも観て、「わだつみのいろこの宮」についてちょっと思いを巡らしてみたい。



▶フェルメール展、京都市立美術館。
ここ10年くらい世界的に沸騰している感のあるフェルメール作品だけど(映画も加勢したか)、一点も観ていないあまのじゃくっぷり。キュレーションが気に入らなかったからこの「フェルメールからのラブレター展」も観るつもりはなかったのだけど、平日昼間に時間がとれたので、ふらーっと行ってみた。レンブラント直前の時期の作品が集まっているようでもあるし、デルフトの画家の作品が観られるのなら、と。

出品されていたのは40点余り。ヤン・ステーンとかヘリット・ダウとかレンブラントの弟子の作品の光の描写の仕方にふむふむなるほど… とうなずいてみたりもいたのだけど、最後のフェルメールの3点で茫然と立ち尽くした。
いやもう立ち尽くすってか入場制限入っててごった返していたからそれどころじゃなかったんだけど、いやもう。
他の一切を圧倒していた。同時代のオランダの画家たちは叩きのめされて、ただ淡々と日々の糧を得るためにだけ描くしかなかったろう。

フェルメールという画家について知ったのは25年ほど前浅田彰が「ヘルメスの音楽」で一編割いていたのを読んだのが最初だったのだけど、この展覧会での3作品を観て、いろんなことが腑に落ちた。光、とはそういうふうに描くものなのだ。
椅子に打った鋲に滴のように落ちた光、幾多の髪飾りに宿る光、インク壺の器をなでる光、衣服の襞をそっと逃げていくような柔らかい光。
いやだからそれはただ反射しているだけなんだけど、絵画として人の目に捕らえられて記憶に残る光とは、ただ厳然とそこに存在しているものなのだなー、と思うしかなかった。
「手紙を読む青衣の女」のウルトラマリンブルーを使った青のグラデーションも確かにきれいだったけど、そういう「存在する光」が湛える時間と、その静謐さに心打たれた。

「手紙を書く女」の髪留めのリボンにそよぐ光、「手紙を書く女と召使い」の完璧無比な構図(完璧って、あるんですね…)、どの3作品にも共通する、二の腕の骨格描写の確かさ(確か、としか言い様が無い)、三様に手紙をしたためる静けさの中で、思わずにいられないうっすらと表出してくる彼女たちの感情のこと。

絵画を観るというのはとても難しいことだけど、本当に驚きました。

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September 7, 2011 in art | | Comments (0) | TrackBack (0)

05/01/2011

「カズオイシグロをさがして」、記憶。

先日NHK の「カズオイシグロをさがして」という特集を観て、部分的に書き起こし。
覚え書きとして。

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記憶
ノスタルジー

 

■イシグロ
子供の頃の小さな記憶が寄せ集められている
取るに足らない小さな出来事をだんだんと積み上げるのです
すると最後に衝撃的な事実に気づかされるんです

 

■アレックス・ガーランド(作家、映画「わたしを離さないで」の脚本家)
私はこの本のテーマを把握していました
しかしこれほど込み入った内容とは思っていませんでした
それはまるでカーペットのようでした
近づけば近づくほど「こんな模様なのか」と分かります
模様の陰には縫い糸が組み合わさっており
縫い糸の陰にさらなる糸が見えてくる
その作業が無限に続くように感じられるのです
とても興味深いことにどこまで進んでも
物語の上部構造は原形を保っていました

 

小説の通奏低音

 

(イシグロ、映画「わたしを離さないで」のプロモーションで来日して)
設定はメタファーとして選んだものだ
誰もが病気になるし誰もが死に至る
クローン人間という特異な状況を用いれば
人々になんと奇妙な存在なんだと思ってもらえる
そして私や映画制作者の願いは
物語が展開するにつれ人々に気づいてほしかったんだ
これが全ての人に当てはまる人間の根幹を描く物語だということを
このような理由で物語の前提が築かれた

 

■福岡伸一(インタビュアー / 分子生物学者)
しばしば人は
「これは私の幼少期の素晴らしい記憶だ」と
「鮮明な記憶だ」と語ることがあります
私はそれらは操作された記憶だと思うのです
感傷的な記憶や美しい幼少期の記憶は
ペットのように飼い慣らされた記憶だと
繰り返し思い返すことで飼い慣らされ
無意識のうちに美しく変更されていきます
つまり「操作」されているわけです
あなたの小説にも似たエピソードや物語が見受けられます
 
■イシグロ
私は幼少期の記憶やノスタルジアをかきたてる記憶に興味があります
特にノスタルジアはとても興味深い感情です
ノスタルジアは懐かしい日々を想う単純な意味にはとどまりません
その深い感情に十分な敬意を払ってこなかったと思います
 
(朗読「わたしたちが孤児だったころ」より一節 / ともさかりえ)
大事。
とても大事だ。
ノスタルジック。
人はノスタルジックになるとき、思い出すんだ。
子供だった頃に住んでいた、今よりもいい世界を。
思い出して、いい世界がまた戻ってくればと願う。
だから、とても大事なんだ
 
■イシグロ
子供はほとんどの場合まもられているものです
日本やイギリスでは私たちのほとんどが幸運なことに
泡の中で長い間大人に守られて育ちます
そして現実の世界を知ることがないように
大人たちによって妨げられています
我々は子供たちに嘘をつくわけです
世界がまるで美しい場所であると
必死に装うのです
しかし大人へと成長する過程で
子供たちはある種の失望感を覚えるのではないでしょうか
世界が優しい場所だという記憶がまだ残っているのですから
ノスタルジアは決して存在しない理想的な記憶なのです

 

■イシグロ
父からは多くを学んだように思います
ただそれは直接的ではなくわたしが科学的な脳を持つことはなかった
父が仕事の話をしてもあまり理解出来ませんでした
しかし人生の対処法というか
少し離れたところから人生を見つめる方法を学びました
なじみのあるものでも「ちょっと離れて見てみよう」と
「別の惑星から来たひとのように冷めた眼差しで見てみよう」と
 
■福岡伸一
あなたは作品で慎重にきめ細かな言葉遣いをしています
それはまるで昆虫学者が細部の変異を観察するため
極小の昆虫を解剖しているかのようです
私はあなたの文体に似た印象を受けます
 
■イシグロ
小説家のやるべきことは人間の感じ方について
この世界で生きる人間の感情面について思いを巡らせることだと感じています
それはまさにあなたがた科学者が克明に描きわたしに教えてくれたものです
芸術に従事する私の任務は「人間に内在する感情」を伝えることです
小説を書くとき私は読者に向けて問いかけます
「これはあなた自身の感情でもあるのでは?」と
私は科学者に反論するつもりはありません
そして科学者の仕事にとって代わろうとは思いません
わたしはただ問いかけているだけなのです
「これは人間誰しもが感じる普遍的な感情ではないか」と

 

■イシグロ
私の作家人生はむしろ日本と強く結びついていると思います
わたしが20代半ばの頃に
日本に強い関心を抱いた5年ほどの時期がありました
特に自分の内なる日本の記憶に強い関心がありました
幼少期に永住すると思わず渡英したので
帰るべき場所日本は極めて重要でした
もう一つの場所「JAPAN」をいつも考えていました
時間とともに「私の日本」という私的な世界を創り上げていました

 

■福岡
小説のテーマについて話したいと思います
あなたは「記憶」について書いていると思います
過去の記憶 個人の秘めた記憶 感傷的な記憶などです
それらに私は強い印象を受けました
ある科学者が我々の身体は
我々自身のものではないことを発見しました
つまり我々は流転しているのです
すべては取り替えられ退化し再び合成しているのだと
我々の身体は一定期間で見た場合
身体は個体でなくむしろ液体だと
さらに長い期間で見ると相互に作用する気体だと
では生命が「動的平衡」であり肉体に完全に基づくのでないならば
どのようにアイデンティティを保てるのでしょうか
どうして私は一貫した存在で私は私であると言えるのか
答えになり得るのが「記憶」です
「記憶」はあなたの小説で大切な要素と感じます
 
■イシグロ
そうです まったくその通りです
記憶は常に私にとってとても大切な要素です
作家生活の初期の頃は特に重要でした
おそらく日本の記憶のせいでしょう
私個人の経験ですが青年へと成長する過程で
私が「日本」と読んでいた大切な場所が
現実には存在しないことに気づいたのです
それは私の頭の中に存在する記憶や想像力
さらには本や映画などから生みだされた架空の場所でした
しかしそれは個人的な場所だったのです
この「私の日本」が徐々に色あせつつありました
万物は流転する
記憶も流転すると言いましたが
小説を書くことは記憶を永久に固定する手段だった
思い返せばミュージシャン志望から小説家に転向した理由は
そこにあったように思います
「私の日本」が記憶から完全に消し去られる前に
写真のように残したいと強く思ったのです
記憶が色あせていくことにあせりを感じました
それ以来私自身と記憶との関係や
すべての人間と記憶との関係性に魅了されているのです

 

■アレックス・ガーランド
私の処女作「ザ・ビーチ」の中に
幼い子どもの対話が登場する場面があります
この対話はイシグロ作品の対話を厳密に手本としています
それはほとんど模倣と言ってもいい
私はそうやってイシグロから教わった
本人は知るよしもないわけですが
とにかく1ページ読んでは再び頭から読み返す
文章を分解しどう組み立てられているかを研究した
おそらく私は彼の技巧を学ぼうとしていたのでしょう

 

■セバスチャン・グローズ(文芸評論家)
「日の名残り」の魅力的な要素のひとつは
そこに想像上の英国が創り上げられている点です
架空の英国は真の姿を現し解体される
裏に潜む影の部分をあらわにさせてゆきます
だからとても重要な小説です
ブッカー賞を獲得し彼は一夜にして世界的大スターになりました
世界的な鬼才となったのです
 
(ナレーション)
イシグロはこの作品を世に出す前にひとつの決断をしています
国籍を日本からイギリスに変えたのです
 
■イシグロ
そのころ気づきました
もはや日本では暮らすことができないと
日本語を話すことができないし慣習もわからないのですから
わたしは自分自身に日本人になれるかと問いかけました
そして無理だと気づいたのです
日本にくるとここがよく知る場所のように思えます
しかしあらゆる意味で滞在が最も難しい国でもある
日本語が話せないことも手伝いました
相手の言うことが全て理解できそうで実際には出来ません
ですから世界中で最も訪問が難しい国なのです
そのころ私は決断しなくてはならないと思った
私は本当にイギリス人なのか
感傷的には日本人であり続けたいと感じていました
イギリス人になることは裏切りなのかもしれない
しかし両親も英国籍が最善の選択と感じていました
英国教育だけで育った私は後戻りできませんでした

 

■イシグロ(『わたしを離さないで』について)
「人生は短いから尊い」とだけ言いたかったわけではない
人間にとって何が大切かを問いかけたかった
設定は有効だった
人間とは何か クローンは「人間」なのかと考え始めるからだ
人生の短さを感じた時我々は何を大切に思うだろうか
この作品は悲しい設定にも関わらず
人間性に対する楽観的な見方をしている
人生が短いと悟った時
金や権力や出世はたちまち重要性を失ってゆくだろう
人生の時間が限られていると実感した時
このことが重要になってくる
この作品は人間性に対し肯定的な見方をしている
人間が利益や権力だけに飢えた動物ではないことを提示している
赦し 友情 愛情といった要素こそが
人間を人間たらしめる上で重要なものなのだ

 

■福岡
あなたの小説にもうひとつのテーマを発見しました
大人になること
子どもから大人への旅です
人々は大人になることをこう捉えています
ある種の成長 進化 蓄積 達成と
しかしあなたの小説は全く違うことを語っています
それはある種の衰えであり退化であると
あるいは辛い記憶に向き合い過去と折り合いをつけることだと
 
■イシグロ
大人になるにつれ世界がそれまで教えられてきたようなーー
優しく親切な場所ではないと気づき始めます
大人になる過程は興味深いものです
我々は理解できないまま良からぬ現実を知るものです
私たちは「死」を理解する前に死を知ることになりますよね
「悪」も同じです
世界にはびこる悪について理解できるようになる前に
その存在を知るわけです
人は物事を理解すると同時に
理解していない状態でそれを学んでいるのです
しかし心の底から理解してはいない
「死」や「悪」に関して口先だけであまり理解していません
大人になることは自分の至らぬ点を認め
自身を赦すことだ
現実には人生は困難だが
それでも折り合いをつけることを学ぶべきなのです
とはいえ自分自身に完璧を求めてはいけません
自身の至らない点を受け入れる術を学ぶこと
それが大人になる上で重要なのです

 

(朗読『わたしを離さないで』)
わたしの大切な記憶は、以前と少しも変わらず鮮明です。
わたしはルースを失い、トミーを失いました。
でも、二人の記憶を失うことは絶対にありません。

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イシグロ

記憶はそのような作用をするものだと思います
それは死に対する部分的な勝利なのです
我々はとても大切な人を死によって失います
これこそが「記憶」の持つ強力な要素だと思うのです
それは死に対する慰めなのです
それは誰にも奪うことができないものなのです

May 1, 2011 | | Comments (0) | TrackBack (0)

04/05/2011

SOMEWHERE

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冒頭、固定カメラで切り取られたラスベガス郊外のサーキットを、乾ききった甲高いエンジン音を響かせてかっ飛ばす黒いフェラーリ。フレームインしてはフレームアウトを繰り返す、何も変わらない、ただ惰性で流れるだけの日常を象徴するような反復。そしてそれにも倦いたのか、走り終えて降り立ち、茫然と立ち尽くす主人公。
このワンカットで、観る者に一切が明らかにされる。この2分足らずのワンカットだけで主人公のメンタリティのすべてが詳らかにされる。そういう男の映画だったのか、と僕らはソフィア・コッポラが造ろうとした主人公ジョニー・マルコ(スティーブン・ドーフ)のメンタリティと日常感覚に一瞬に馴染んでしまう。この冒頭だけで。

前々作「ロスト・イン・トランスレーション」同様、映画の中では何も起こらない。酒とパーティーと女漬けの毎日で、投宿しているシャトー・マーモントに双子のデリバリー・ポールダンサーを呼んで踊らせているうちに眠りこけてしまうばかりの空虚なだけの日常。離婚した妻との間の娘クレオ(エル・ファニング)を預かり、一緒に過ごしている間優しい気持ちになることはあっても、いつかまた元の日常に戻っていく。
そういう時間を、ソフィア・コッポラは深刻ぶることもなくユーモア交えてオフ・ビートで描く。
惰性で生きる男の抱える孤独とか最後に気付かされる家族の絆の大切さとか、紋切り型のテーマはいくらでも簡単に見つかるけどそう単純なことでもなく、ほんの些細な事柄から引き起こされる微細な心の揺らぎと焦燥感を象徴的に、優しく掬いあげて見せている。なんということもない、日常の光景をを淡々と切り取ってみるだけで。
かつて同じシャトー・マーモントの一室で、フランシス・F・コッポラの膝の上で過ごしたであろうソフィアの原点を想像させるに十分な、そういうたわむれの時間帯。

ガス・ヴァン・サント組のハリス・サヴィデスの撮影がいい。紗のかかったような、絆のような何かを伝えている逆光気味の柔らかい空気感。
シャトー・マーモントでの卓球とか時間が止まったようなプールサイドでの昼寝、Wii Sports に興じるひととき、そういう幸福にも思える時間帯にも潜んでいる哀しみとかネガティブなものまで余すことなくサヴィデスのカメラはさらっと写し取り、ソフィア・コッポラが描こうとする主人公の心象風景を的確に、あるいは監督自身気づいていない脚本以上の何かを広げてみせる。
特に、クレオがギンガムチェックのコットンワンピース姿で無心に朝食を作っているシーンが秀逸。あそこにどれだけの愛が注がれていることか。ソフィア・コッポラの、ハリス・サヴィデスの、脚本の、あるいは役柄を離れたスティーブン・ドーフ本人の。

Somewhere07
 

「ソーシャルネットワーク」同様、音楽が印象的。予告編が Toutube で公開されたとき、ジュリアン・カサブランカス(The Strokes)の "I'll Try Anything Once" に打ちのめされた。映画表現におけるソフィア・コッポラの世界観そのままの繊細で、メロディアスな旋律。それにしてもいいタイトルですね、I'll Try Anything Once.
ラストにブライアン・フェリーの "Smoke Gets In Your Eyes" が流れていたけど、ソフィア・コッポラってよほどロキシーが好きなんでしょうね。「ロスト・イン・トランスレーション」ではビル・マーレイに "More Than This" を歌わせてたし。

エレベーターでのほんの10秒ほどののカメオ出演だったけど、デル・トロ存在感あり過ぎ。このとき主人公に教えてくれたけど、U2のボノが宿泊したのは主人公が泊まっていた59号室。これマメ知識な。

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April 5, 2011 in films | | Comments (2) | TrackBack (0)

03/13/2011

東北地方太平洋沖地震のことと。

覚え書き的に。

阪神大震災の時西宮在住だったけど、あのときは夜明け前。
揺れを感じるより先に降り注ぐ書籍の山に起こされた。あー、とうとう来たのか、と思い、今動いてもしゃあないから、とりあえず書籍の山の下の布団の中で揺れがおさまるのをじっと待っていた。
おさまったところで、外に出てみた。電気はすべて落ち、あたりは闇でしかなかった。どうすることもできず部屋に戻り、幾多の余震を感じながら外が明るくなるのを待った。

明るくなって外に出てみて、立ち尽くすしかなかった。住んでいたワンルームマンションのひび割れこそ確認できるものの、周囲を見渡してすべての崩壊ぶりを見るに当たり、昨日のままに建っているのは奇跡でしかなかった。
何をしなければいけないか思いつくはずもなく、すべてがひっくり返った部屋の片付けをしているうちに(午前10時すぎだったか)、電気が戻ってテレビがついた。
ニュースでは、京都の何寺で仏像が何体落ちた模様です、とか報道されていた。

え...? それだけなの?

伝えられているはずのこの現実がどこにも伝わっていないんだと気づいて茫然とした。

昼前、公衆電話を見つけて、試しにコインを入れたら通じていた。堺の職場に電話して、とりあえず水を確保しなきゃいけないから、とその日休むことを伝えた。その帰り、近所の店先では遺体が数体、毛布を被せられ、その隣で家族が膝を組んでただ座っていた。

水道が復旧したのはそれからどれくらいだったろう。住んでいた香櫨園でのガスの復旧は、西宮市内では最後だったと記憶する。

時代はあのときと比べてすっかり変わった。ネットという日常は、生きていく上での勇気のきっかけを届けていると感じる。
あまり無理しなくて良いと思う。どこかで、いろんなことを無事でいる誰かが考えて、行動してくれている。想像を超えた、阪神の時とはまったく違う様相を見せつけている東北地方太平洋沖大地震の傷跡だけど、もう、祈っているしかない。心苦しい気もするけど、今大阪にいる自分には、今の自分にできることをこなしていくしかない。

無理しないでください。

 
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写真は NewYork Times から。

March 13, 2011 in life | | Comments (0) | TrackBack (0)

01/10/2011

「オラクル・ナイト」ポール・オースター

オースターお得意の多重構造。あとがきで柴田元幸が書いているようにオースター曰く「弦楽四重奏」な小説。
オースター自身が書く物語の中で主人公が書く物語、さらにその物語の中で。

タペストリーとかそんな上品なものじゃないけど、あやなす物語の中で人生の襞のどろりとしたものがくみあげられ、容赦なく陽のもとに晒されていく。主人公たちは、できることなら知りたくない事実をつまびらかにされ、知りたくない事実の関係性に打ちのめされる。
事実を彩るエピソードの数々。それを読む快楽。読み進まずにはいられない。

Oraclenight

小説家の「私」シドニー・オア が、20年前(当時30代前半)に大病をした直後に起こった奇妙な出来事を書き連ねていく。
美しく、ストイックで聡明な、青い目の妻グレース、グレースの父親がわりのどこかヘミングウェイを思わせる友人作家ジョン・トラウズ 、トラウズの暴虐な息子ジェイコブ、この物語のすべての鉄爪になったポルトガル製の青いノート、そのノートを買い求めた先の文房具店主、M.R.チャン。
リアルの主要登場人物はこれだけ。

もちろんブルックリンでの物語。

「私」がポルトガル製の青いノートに万年筆で綴る物語の中で。
ニッキー(編集者)と妻イーヴァのレストランでの食事風景。ふたりはその夜、ニッキーの元にある小説を持ち込んできたローザを見かける。1927年に書かれた未発表の「オラクル・ナイト(神託の夜)」。ローザはその小説を書いた作家の孫娘だ。

イーヴァはさっきから首をのばしてローザのテーブルの方を見ている。すごく綺麗だよね、とニックは言う。でもニッキー、髪は変だし、服装は最悪よ。関係ないさ、とニックは言う。とにかく生き生きとしてるんだよ。あんなに生き生きとした人に会ったのは何ヶ月かぶりだね。あれは男をとことんひっくり返しちまうたぐいの女性だよ。
男が妻に言うべき科白ではない。特に、夫が自分から離れかけている気がしている妻に言うべき科白では。


その夜ニックは、ダシール・ハメットの「マルタの鷹」の中の登場人物をそっくりなぞったアクシデントに巻き込まれる。
「誰かが人生の蓋を外して中の仕組みを彼に見せた」ような出来事。「世界は偶然に支配されてい」て、「ランダム性が人間に、生涯一日の例外もなくつきまとって」いて、「命はいついかなる瞬間にも、何の理由もなく人から奪われうる」ことを象徴する出来事。

それは「私」が描く物語の中で主人公に与える神託。

一方「私」にとっては、ポルトガル製の青いノートこそが神託だった。

私は万年筆のキャップを外し、青いノートの1ページ目の第一行にペン先を押し付けて、書き始めた。
言葉はすばやく、滑らかに、大した努力も要求せずに出てくるように思えた。驚いたことに、手を左から右へ動かし続けている限り、次の言葉がつねにそこにいて、ペンから出るのを待っていてくれるように思えた。


オートマティズムのように書き連ねていく物語は「私」自身への神託として跳ね返っていく。
グレースの秘密と懊悩、文房具店主チャンの奸計、トラウズの息子ジェイコブの破滅、「私」とグレースを飲み込む悲劇と、トラウズによってもたらされた再生。

これより1本前の、まだ読んでいない「幻影の書」を読む前に、「幽霊たち」「鍵のかかった部屋」を再読したくなった。

 

 

January 10, 2011 in books | | Comments (2) | TrackBack (0)

05/30/2010

iPad、陰影礼賛。

Ipad002

IT系のものを含めてあちこちでニュースを読んでいる限り、いろんな意味でエポックメイキングになってしまった感のある Apple の iPad。
日本での発売日程が決まらない内は TPO が見いだせないこともあって購入するつもりは一切無かったのですが、予約開始のその初日、ヨドバシに駆け込んでいました。
やれやれ。

たぶんウチでは家人メインで使っていくことになる予定ですが、とりあえず半日使ってみたところで所感を。

■小さい。

それまでネットのいろいろなことで目にし、思い描いていたサイズより、2cm四方くらい小さかった。ヨドバシの売り場で店員が抱えていく iPad の箱を見て、あれ?と思ったのですが、いやー、小さい。
さらに、薄い。実際、厚みは iPhoneとほとんど変わりません。
そのわりには、重い。
重いのですけど、この質量は絶妙。確実で、可能性に満ちた何かを手にしているのだ、と思わせてくれる、そういう重さ。
僕のマシンはMacbook Pro じゃないので、アルミ削り出しの質感と併せて、感動しました。

■バッテリー。

実は開封の儀を wifi の入っているシアトルズベストカフェでやろうとヨドバシから直行したのですが、いつからかコンセントが使用禁止になっていたことを忘れていて orz..
で、家に戻って開封したところ、バッテリーのインジケーターは満タン。アダプタ差す必要もなく。
あらら。
シアトルズで敢行すればよかった。

■速い。

iTunesと同期の際、iPhone に入れているアプリが全部入るわけですが、まあとにかくどのアプリも速い。下手すると日常的ににラップトップ使っている間より快適。
すっかり iPhone3G のモッサリ感に慣れてしまった身にはとても新鮮(次期 iPhoneが待ち遠しい)。

■なんだこのウィンドウデザインは。

iPhoneと違って、デスクトップピクチャが入ります。いわゆる壁紙。で、この壁紙の上にのるアイコンにはシャドウがついてます。
このシャドウが好みの分かれるところ。
そうとうボカシが入っています。
立体感を出すため、アイコンのシャドウは Mac でも普通についています。ついているのですが、ここまでボカされていない。
これを気にしてしまったら、次のアイコンのページにスクロールさせる時、背景(壁紙)はもちろん固定されているので、少し気持ちの悪いものが尾を曳く感じ。。
まあ、iPhone同様に壁紙を真っ黒にしてしまえば問題ないのですけどね。

とりあえず、以上。

iPhone併用の使い方で目から鱗を2、3枚落としてみたいのだけど、まだわかりません。。。

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May 30, 2010 in mac | | Comments (0) | TrackBack (0)