初めての『フィガロ』
先日録画しておいた『フィガロの結婚』を観る。昨年のザルツブルク音楽祭、モーツァルトイヤー絡みの企画でアーノンクール指揮、ウィーン・フィル演奏。すでにDVDが出ている(→参照)。クラウス・グートの演出が凄い。
クラシックはもとよりオペラに関してはド素人なのでよく知らないのだけど、オペラでこんなカメラワークって、あり? 現場でリアル観賞している観客には見えない視点が加えられていて、それによる臨場感がすげーヒッチコック的。不安感を煽る煽る。普通、舞台芸術観賞においては見慣れない角度だけに。照明も徹底して計算されているようで、美しい。
幕が上がるといきなり息を呑むことになる。舞台セット、舞台衣裳は一切の装飾らしい装飾が削ぎ落とされたスタイリッシュなモノトーン仕立て。動かぬ登場人物の周りを飛び回るケルビム(天使)、これはパントマイムの舞台か! と思わせるような。このケルビム、というのは原作にはない、クラウス・グートの解釈で登場させた狂言回しらしく、一切歌わない、語らない。
どうです、いったいこの舞台↓にモーツァルトが響いているなんて思えますか?(笑)
グートはベルイマン映画(他、イプセン、ストリンドベリ等)にイメージを得たというが、そう、まさに。北欧っぽい透明感のある暗さと、誰も気付いていない奥深いところにある悲劇の感覚と。照明が、それを見事に引き出している(って、舞台はセビージャだから、おもいきりラテンのはずなんだけどね)。
あれだなー、ハンガリーの俳優、クラウス・マリア・ブラウンダウアーの映画『メフィスト』とかの雰囲気にも似ている。スタイリッシュなんだけど、底にどろどろっとした情念がほの見えているような雰囲気を伝える舞台。
あるいは換骨奪胎されたカサヴェテスの映画。
第1幕、下僕ケルビーノ(クリスティーネ・シェーファー:男役)のアリア「自分が分からない」にいたる直前のマイムのようなさらっとした振り付けはもう、一瞬のピナ・バウシュか? とも思えるコンテンポラリー・ダンス的なそれ。これは第2幕、同じくケルビーノのアリエッタ、「恋とはどんなものかしら」でも再現される。かすかな困惑・驚きといった表情以外、最後までまったく無表情に歌うシェーファーの歌はド素人の耳にも凄い、と鳥肌立つ。その無表情に、抑えつけたエロい情念がちらちらしている。そしてこの直後のスザンナ(アンナ・ネトレプコ)と伯爵夫人(ドロテーア・レシュマン)がケルビーノを女装させるのだけど、どこか密やかな雰囲気のこの場のエロさといったら、ちょっとない。レシュマンの恍惚の表情といったら、もう、アレなんである。
いやー、モーツァルトのエロって、もっと喜劇的かと思っていたのですが、意外、なんか胸をかきむしられるような、焦がれるようなエロスでした。息を詰めてしまう、ような。それでもどこか透徹した印象を残して。
こんなことならもっと早く観ておくのだった、と後悔。
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October 15, 2007 in music | Permalink
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