« October 2006 | Main | December 2006 »

11/28/2006

アーノンクールのモーツァルト。

先日テレビでやっていたアーノンクールとウィーンフィルのモーツァルトをDVDに焼いて聴いた。交響曲第39、40、41番というポピュラーなプログラム。
焼いたのはいいんだけど、ちょっとした大失敗をしてしまって、曲の頭を出すのに相当手間のかかることになってしまった。うーん、再放送やってくんないかな。

僕はクラオタではない。普段クラシックを聴かない人よりは聴いているという程度なのでモーツァルトを語ることなどできないけど、図らずもこの40番にはいたく感銘してしまった。図らずも、というのはアーノンクールを好きではないということからくるのだけど。

第1楽章第1主題、いきなりのヴィオラの溜め息が美しい。溜め息なんだけど、早いッ! 40番って、こんなに早かったかよッ! というような。
でも、早いんだけど、やはり優雅で、デモーニッシュ....怖いくらい。アーノンクール、何を究めてきたのか? と身体が震えてくる。いや、マジでさ。僕はワルター指揮のコロンビア交響楽団演奏、あるいはバーンスタイン指揮ウィーンフィル演奏の第1楽章で踊っていることが多い(文字通り踊るのだ(笑))のだけど、これはちょっと踊れない。ワルターほどには悲しみが際立っていることもなく、逆にそれだけ洗練されているともいえるのかな。とにかく素晴らしい。

管楽器がメインの第3楽章も滅法に早い。メヌエットなんだけど、ダイナミックでさえある。逆に間に挟まれるト長調トリオはそんなんアリかよ? というほど緩やか。その緩急がツボにハマって面白い。この楽章に入る時、アーノンクールはホルンのあたりをあの目でギロッと睨みつけていたから、そうとうホルンの若いもん、緊張しただろうな。リハーサルで相当シメられていたのかもしれないな(笑)
第4楽章はこの曲のフィナーレとしては十分に存在感アリ、だったけど、堅実に過ぎるきらいもあった。この終わり方以外にないのだろうか。ちょっともったいない気もした。

第41番は流麗でダイナミズムにあふれていました。切なさをにじませた情念のこのほとばしりはどうだッ! とたたみかけてくる第1楽章のフィナーレは鳥肌もの。解体して捏ねにこねては再構築を繰り返し、の結果か。とにかく凄かったです。

November 28, 2006 in music | | Comments (0) | TrackBack (1)

11/25/2006

フィリップ・ノワレ、アニタ・オディ、ロバート・アルトマン。

先日ケーブルTVで『ニューシネマ・パラダイス』を観ながらCDを整理していたとき、合間にアニタ・オディの『ANITA SINGS THE MOST』を聴いた。この組み合わせになったのはほんとにたまたまだ。
昨日のニュースで知ったのは、フィリップ・ノワレとアニタ・オディの訃報。偶然とはいえ、こう重なるかよと呆然とする。
フィリップ・ノワレは出演作130本を数えるというフランス映画の重鎮。『地下鉄のザジ』にも出ていたのですね。
アニタはジャンキーのアル中。かなり根性が座っています。あのハスキーボイスはだからこそアニタらしいとも言えるのか。

で、今日の訃報ニュースはロバート・アルトマン。絶句。癌の合併症で、享年81歳。Altoman2ということは『バレエ・カンパニー』を撮ったのは78歳のときかよ。信じられない。あの若さみなぎる映像。
来春公開予定の『ア・プレーリー・ホーム・コンパニオン』が楽しみとはいえ、もうこれ以上アルトマンの新作を観ることができないなんてな....

November 25, 2006 in news | | Comments (2) | TrackBack (0)

11/23/2006

第32節、浦和vs甲府。

煮え切らないノブヒサほどチャンスを潰すものはないことを再確認させられた前半。うまいキープからワシントンにラストパスが通っても、そのワシントンが大ブレーキで全然足下にボールが収まらず、シュートまで持っていけない。トラップのイメージに身体が追いついていない感じか。2度のPK失敗にしたって、相手GKのビッグセーブというよりむしろワシントンのメンタル面での脆さが露呈されたという印象。
一方甲府はバレー独演といってよく、それもシュートする前にばたばたと潰えるばかり。ほとんど啓太、ウッチー辺りでストップ。山岸が労する場面は皆無。

後半早々、ノブヒサ→ワシントンでやっと先制。サイド攻撃がさっぱりな中、結局この日もほとんど消えることがなかったノブヒサの日になった。2点目の個人技からのゴールはお見事だったけど、半分はエリア内に入ってくる前に止められなかった甲府DFのおかげだろう。アレックスが全体のスピードを殺して一向に仕掛けることをせず不甲斐ない中、ノブヒサの精力的な動きがどれだけチャンスを生み出しているか。前半は玉離れが悪かったけど、ハーフタイムでしっかりイメージを取り戻せたのでしょうね。

完封でチェック。この日曜、決めて欲しい。

November 23, 2006 in reds | | Comments (0) | TrackBack (0)

11/22/2006

『のだめ』Lesson6、小津『晩春』

平日に時間が取れて、とりためていた『のだめカンタービレ』を朝から観る。ここ10数年テレビドラマなんて観ていないのだけど、これは傑出していますよね。素晴らしい。
ベートーベンの7番が終わってLesson5の回からラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。個人的には鬱陶しくて好きな曲ではないけどワイルダーの『七年目の浮気』やジョン・フォンティーンがめちゃくちゃ美しかった『旅愁』とかを思い出すちょっとミーハーな曲。耳につくんだよね(笑)
Lesson6後半から話は急展開し、主人公千秋が自分のオケをつくることになる。楽しみ。どんな曲を振るのだろう。

時間の合間を縫って小津の転機となったといえる『晩秋』を小刻みに観ている。主人公紀子(原節子)の叔母を演じた杉村春子が絶品。以下、紀子の父親(笠智衆)と叔母との掛け合い。

叔母「そりゃ昔から見りゃ今時の若い人は随分変わったもんよ。ゆうべのお嫁さんだってお里は相当なんだけど出てくるごちそうはあらまし食べちゃうし、お酒も呑むのよ」
父親「ふぅむ」
「真っ赤な口してお刺身ペロッと食べちゃうんですもの、驚いちゃったわ。」
「そりゃ食うさ、久しく無かったんだもの」
「だってあたしなんか胸いっぱいで、お色直しの時おむすびひとつ食べられなかったもんよ」
「いまなら食べるよお前だって」
「まさか。ーーでも、なってみなきゃ分からないけど」
「そりゃ食うよ」
「そうかしら」
「そりゃ食う」
「そうねえ。でもお刺身までは食べないわよ」
「いや食うよ」
「そうかしら」
「そりゃ食う」

(中略)

「でもメソメソされるのも困るけど、ああシャアシャア(嫁に)行かれちまうのも親だって育て甲斐ないわね」
「そりゃまァご時世で仕様がないさ」
「紀ちゃんどうなの」
「うーん、あれだってメソメソなんかしやしないよ」
「いいえさ、お嫁の話よ。もう身体の方はすっかりいいんでしょ?」
「ああ、そりゃいいんだがね」
「ほんとならもうとっくに行ってなくちゃ」
「うん...」
「あの人なんかどうなの、ほら」
「だれ?」
「兄さんの助手の」
「ああ、服部かい?」
「どうなの、あの人なんか?」
「うーん、いい男だがね。紀子がどう思っているか。なんともなさそうだよ、たいへん当たり前にあっさり付き合っているようだがね」
「そりゃわかんないわよそんなこと、おなかン中で何を思っているか」
「そうかね」
「そうよ、そういうもんよ。今時の若い人達ですもの」
「そうよ」
「一度訊いてごらんなさいよ」
「誰に?」
「紀ちゃんによ」
「なんて?」
「服部さん、どう思うって」
「なるほどね。じゃ、訊いてみようか」
「そうよ。そりゃわからないもんよ」
「うん....」
「案外そんなもんよ」
「うん....(深く頷く)」

まあ、相手が笠智衆だからできる掛け合いではあるけど、絶妙の間。
呆気にとられてしまう。

 

November 22, 2006 in films | | Comments (0) | TrackBack (1)

11/20/2006

原節子、2題。『めし』『白痴』

成瀬巳喜男の『めし』を観る。原節子と上原謙。上原の演技を観るのは初めてかもしれない。CMしか記憶にないもんな。大根もいいとこだけど。

結婚数年目の、倦怠期にある夫婦の日常。未来を思うこともなくなり、味気ない日常を米をとぎつつ淡々とやり過ごすこともつらくなってきた頃か。そういう時期にある主婦を演じる、絶望を覗きたくないんだけどこのまま絶望に向かうのかなと不安で押しつぶれそうになる原の眼差しが物凄い。そういう眼差しをひきだす成瀬の手腕も素晴らしいのだけど。
ラストシーンのオチには平成的には何だかなーであるが、昭和20年代にはすっと胸に沁みるものがあったのだろうか。

このDVDを観るまで原の出演作品は小津のものしか知らなかった。成瀬の『めし』で新鮮なものを見たような気になれたので、他の監督のも観てみようと黒澤明の『白痴』を借りる。ドストエフスキーのムイシュキン公爵を森雅之が演じているのだと知って、『浮雲』の厭世観たっぷりの存在感を思い出し、あまり期待しないほうがいいかのなと観始めた。舞台はペテルブルクに代わって札幌。札幌らしいんだけど、街の全貌は全然見えてこない。むしろ小樽的な雰囲気が濃い。陰鬱で、重い。重いんだけど、引き込まれた。黒澤的な力強さはこの作品の底辺にしっかり流れている。

当然ナスターシャ(那須妙子)を演じているのが原節子。
すげえ。
としか言いようがない。マリア・カラスばりのメイクでファムファタルとは斯くの如しかと息を呑む。アグラーヤを演じる久我美子がすっかりかすんでしまっている。愛憎劇の極北がそこにある。こんな演技もしてたんだ、原節子。
小津映画の常連、東山千栄子もいい。弁舌闊達で、小津作品からは想像もつかない明るい生命感がある。この映画の中で唯一ポジティブな存在をさらりとこなしているという印象。森はやっぱり厭世観が滲み出てしまっていてムイシュキン公爵の清々しさからは外れてしまっていたように思う。作り込み過ぎじゃないのかな。
『羅生門』につづいてコンビを組んだ三船敏郎はハマリ役だったけど。

 

November 20, 2006 in films | | Comments (0) | TrackBack (1)

11/15/2006

ジャック・パランス。

ジャック・パランスといえば僕には『軽蔑』と『バグダッド・カフェ』なんだけど、『シェーン』にも出ていたなんて。
って、『シェーン』なんて小学校の頃にテレビで観たきりだから覚えていないのも仕方ないけど。

『軽蔑』でさらりとブリジッド・バルドーをさらって行くのなんかもうシビレましたね。あのあっけない最期といい。

死因が老衰というのも素晴らしい。いや、真面目な話。今時、老衰死が報道される俳優ってなかなかいないんじゃないですか? リリアン・ギッシュ以来のような気がします。

合掌。

November 15, 2006 in films | | Comments (2) | TrackBack (0)

11/13/2006

『麦秋』『水曜の朝、午前3時』『明日へのチケット』『浮雲』

秋を楽しんでいるヒマもないうちに初冬になったような昨日今日。
今週末もTSUTAYAの半額クーポンを利用して小津の『麦秋』と成瀬の『浮雲』『めし』とかを借りる。邦画は滅多に観ないのだけど、そんな気分だった。
先週、数年前からのベストセラーらしい(本当に最近の小説には疎くなってしまったな)蓮見圭一(全然知らない小説家だし)の『水曜の朝、午前3時』を読んで、S&Gのアルバムも借りた(笑)

『水曜の朝、午前3時』は読んでいるうち、その半ばくらいまでは何というのか、ちょっと硬派なハーレクインロマンス(読んだことないけど)という印象で、じきに積ん読になってしまうかなと思いつつ寝しなに読んでいた。結局読み通してしまったのは、主人公がジョニ・ミッチェルとかジャニス・ジョプリンとか、「あの頃」の音楽を愛しているのが気に入ったから。とはいってもあの頃の曲なんて僕はほとんど知らないのだけど。
読み終えて感じたのは、潔い小説だな、ということ。読みやすい通俗的な恋愛小説でありながら、最後には清々しさとちょっとした力強い何かさえ感じさせた。
いい小説だと思います。

この小説のタイトルはサイモン&ガーファンクルのデビューアルバムからとられているのだけど、小説の中身はこの曲とは一切関係ない。印象的なタイトルだし、この曲の詞にも鮮烈なものがあるけど、小説の主題との関連はどこにも見えない。ただ一カ所、はっとさせられるけど、深追いしない方がいいと思う。
でもまあ、読者にどう思われようが、世に出てしまっている以上、どう解釈するのも読者の勝手だろう。

朝から『麦秋』を観る。
麦秋というのは麦の穂のみのる初夏の頃のことで、季節の秋とは違う。
いや、じつは秋の季節を舞台にした映画と思って借りたのだけどさ(笑)
小津の女性観は好きではないけど、それを原節子に代表させられちゃ認めるしかない。とはいってもやっぱりこの2年後の『東京物語』の原のほうがいいな。映画なんだから、もっと悲壮感というか、いかにも現実が脚色された役柄の方が観ていて楽だし。
菅井一郎と東山千栄子の老夫婦という役柄は、『東京物語』での笠智衆と東山よりは叙情を排していて好ましく思えました。

昼間はもう疲労でぐったりして部屋から動けず。かなり寒かったので、からだをほぐす意味での水泳もやめておく。
途中まで成瀬の『浮雲』を観、夕方から気になっていたオルミとキアロスタミ、ケン・ローチのコラボレート、『明日へのチケット』をガーデンシネマに観に行く。
オルミのタッチは『聖なる酔っぱらいの伝説』以来か。あれはルトガー・ハウアー主演だったんだよな。センチメンタルな部分は健在。3つのエピソードからなっているけど、最初のがいちばんオルミの色が濃かったように思う。
ラストエピソードは爆笑もの。映画でここまで笑えたのはほんと久しぶり。やっぱり心底愛するチームがあるサッカーファンって、いいね。

帰宅してから『浮雲』の続き。ラストは鹿児島〜屋久島でのロケだったので驚く。林芙美子原作だからもっともだけど、ちょっと懐かしい気分になる。あの時代、高麗橋のあたりから桜島が見えたんですね。びっくり。それはそうだよな、現在みたいなビルなんてあるわけがなし。
それにしても森雅之、太宰にそっくり。ニヒルであることの味気なさが痛烈。太宰の方が表現者としてはまだ明るいとは思うけど。


深夜、U-19の北朝鮮との決勝を観ながらフルニエの無伴奏チェロ組曲を聴く。
秋だよな。

 

November 13, 2006 in films | | Comments (4) | TrackBack (2)

11/01/2006

『ぼくを葬る』、ルイ・マルの『鬼火』

TSUTAYAの半額クーポンを利用してDVDとCDをごっそり借りる。
とりあえず今回はフランソワ・オゾンの『ぼくを葬る(おくる)』について。

オゾンの作品についてはかなり食わず嫌いなのだけどシャーロット・ランプリングの『まぼろし』はなんというか、触って欲しくないところを触られてしまった感じで記憶に残る映画。認めたくないけどそれ以来気になる映画監督で、他には『ふたりの5つの分かれ路』しか観ていなかった。

『ぼくを葬る』は末期の癌を抱えた30そこそこのカメラマン(ロラン)が自分の独善的で、刹那的な快楽を追ってばかりの代償として断絶してしまっていた家族(とくに幼子を抱えた姉)、幼少の頃からの恋人(ロランはゲイなので、恋人はもちろん男)、そして祖母(ジャンヌ・モロー!)と最後の別れを告げていく心の旅路を描いた映画。贖罪の意を込めた別れだけど最後まで自己中心的であることには変わりなく、最愛の祖母からの「化学治療を受けて頂戴」との嘆願も拒絶する。
40年も前の、モーリス・ロネの『鬼火』を思い出させるシチュエーションだけど、ルイ・マルは敬遠する人物造形だろうなー。

『鬼火』のなかで、虚無に打たれたアル中患者であり自殺志願者でもある主人公(モーリス・ロネ)が死の前に親しかった人々に会いに訪れることに特に意味はない。ないのだけど、会う人ごとに孤独感を深めて頽廃に染まるばかりで、麻薬中毒者グループの親玉(ジャンヌ・モロー!)に会うにいたってはその頽廃に羨望を感じさえし、シニシズムに浸ることになる。
一方オゾンの主人公ロランはまだ心的な救済の余地は残されている。その分、現実的だといえる。実際、偶然に知り合った不妊の夫婦から生殖行為の依頼を受け、自分がゲイである事実から飛躍するという救済にたどり着くのだから。

だからオゾンは好きになれない(笑)
小説家とか映画作家とか画家とか、表現者は何であってもそうだと思うのだけど、自己完結させちゃいけない。『鬼火』のモーリス・ロネにシンパシーを抱かないまでも心を奪われるのは結局、僕らが自分の抱える現実から離れるために映画を観るのだという証じゃないのか。

っつうか、『まぼろし』といい『ふたりの5つの分かれ路』といい、ラストシーンでの「浜辺」という場所にたいするこだわりはいったい何なのでしょうか?

November 1, 2006 in films | | Comments (0) | TrackBack (0)