『ロング・グッドバイ』
清水俊二訳の『長いお別れ』を読んだのはそれこそ25年ほど昔のことで物語の本筋は全然覚えていなかった。『さらば愛しき女よ』も『プレイバック』も。でも近年ビデオで観たロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』(エリオット・グールド主演)が鮮烈だったので僕のチャンドラー体験はこのアルトマン映画によるものが大きい。フィリップ・マーロウといえば、「まあ、どうでもいいけどね」("It's OK, with me")が口癖の、シニカルでちょっとペシミズムが入ったとっぽい私立探偵という印象で固まっていた。だから村上春樹訳(というか、本家本元)の『ロング・グッドバイ』には狐に摘まれた感じ。マーロウって、こんなんだったの? と。ストイックというハードボイルドにおける修辞を、なるほどなと思った。
って、ハードボイルドというジャンルのこともよく分かっていないんだけど。
と言いながら、ヘミングウェイ小説がそうであるように、ハードボイルドというジャンルには猫がよく似合うなーとも思っている。このあたり、猫という動物の「わがまま」「裏切り」というプロパティからそう受け取ってしまうのかもしれない。アルトマンの『ロング・グッドバイ』での猫も身勝手このうえなく、おまけに早々に消えていなくなってしまう。まあ、アルトマンとしては(脚本を担当しなかったにしても)猫好きだったチャンドラーへのオマージュとして挟んだシーンらしいけど、それでも冒頭からのマーロウが猫に絡む10数分は映画史に残るといっていいほど秀逸。これがアルトマンのマーロウ観か、と。
ちなみに本家『ロング・グッドバイ』には猫の影さえない。
物語としてはあたりまえだけど本家本元の方が圧倒的にいい。「駆け引き」「心変わり」「自己投影」といった人間の業の深さが胸に染みいる。読書の幸福感を約束する作品だと言ってもいい。ラストシーンのカタルシスと表裏一体の悲哀はこれこそこのジャンルの醍醐味というものだしね。
どうして映画版でこのラストをそのまま採用しなかったのか首を傾げるけど、アルトマンの、あるいはエリオット・グールドのフィリップ・マーロウならあれくらい暴力的なラストでよかったのかもしれない。
名文家と謳われるのもなるほどなーとうなずけるエスプリの効いた表現があちこちに散りばめられていて、読み進めるのが惜しいほど。ときにその過剰さゆえにギャグのネタに取り上げられるハードボイルドというジャンルだけど(実際、ところどころ笑えた)、スタイルとして確立されているんだなあと、あらためて納得。
僕は最近の村上春樹小説の良い読者ではないので、村上春樹というバイアスは排除して読めたはずなのに、読中、初期の村上作品がオーバーラップしてくるのは避けようがなかった。とくにそのラストシーン、これって『羊をめぐる冒険』じゃん? 死者の仮面をかぶったテリー・レノックスは『羊』の鼠その人でしかなかったし。
あるいはグリーン部長刑事とデイトン刑事、また、メンディー・メンデスとその手下とのやりとりは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のちびと大男との、あるいは、以下略。
もっと言えばハーラン・ポッターは『羊をめぐる冒険』の「先生」や『国境の南、太陽の西』の「義父」だったり、以下略。
「まあ、どうでもいいけどね」
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March 31, 2007 in books | Permalink | Comments (5) | TrackBack (4)