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10/31/2007

「走ることについて語るときに僕の語ること」

村上春樹の新作エッセイ。エッセイといってもその文体は村上の得意とする紀行文のもので、チャプターがかなり長い(軽妙洒脱なものを期待したらちょっと躓くかもしれない)。でもまあ、それだけにじっくり読める。結局はあっという間に読み終わるのだけど。

村上がその時走っている場所の、季節の描写が素敵だ。
たとえば、ボストン。学生たちがレガッタの練習に励み、女の子たちが芝生の上にビーチタオルを敷いてウォークマンやiPodを聴きながらビキニ姿で日光浴をし、毛の長い犬は脇目もふらずフリスビーを追いかけ、誰かがギター弾きつつニール・ヤングの古い歌を歌っている夏の後に、

しかしやがて、ニューイングランド独特の短く美しい秋が、行きつ戻りつしながらそれにとってかわる。僕らを取り囲んでいた深い圧倒的な緑が、少しずつ少しずつ、ほのかな黄金色に場所を譲っていく。そしてランニング用のショートパンツの上にスエットパンツを重ね着するころになると、枯れ葉が吹きゆく風に舞い、どんぐりがアスファルトを打つ「コーン、コーン」という固く乾いた音があたりに響く。そのころにはもう勤勉なリスたちが、冬ごもりのための食料を確保しようと、目の色を変えて走り回っている。
ハロウィーンが終ると、まるで有能な収税吏のように簡潔に無口に、そして確実に冬がやってくる。
(中略)
そして季節は川をとりまく植物や動物たちの相を確実に変貌させていく。いろんなかたちの雲がどこからともなく現れては去っていき、川は太陽の光を受けて、その白い像の去来をあるときは鮮明に、あるときは曖昧に水面に映し出す。季節によって、まるでスイッチを切り替えるみたいに風向きが変化する。その肌触りと匂いと方向で、僕らは季節の推移の刻み目を明確に感じとることができる。そんな実感を伴った流れの中で、僕は自分という存在が、自然の巨大なモザイクの中の微小なピースのひとつに過ぎないのだと認識する。川の水と同じように、橋の下を海に向けて通り過ぎていく交換可能な自然現象の一部に過ぎないのだ。(p123)

僕は走らない人だけど(走っても月に一度くらい、思い出したように)、休日にチャリをさーっと流すのは昔から好きだから、この感じは身にしみてよくわかる。そりゃ、走る人に比べたら見逃すものは多いだろうけど。
マラソンをやりたいと思ったことがない代わりに、トライアスロンをやりたくてちょっと真剣にトレーニングし始めたことがあったのだけど、じきに仕事が猛烈に忙しくなって挫折した。そういうこともあって、長距離を走ることには羨望がある。

2005年、村上はニューヨーク・シティ・マラソンのためのトレーニングをしていた頃、不意に右膝に不安を抱えることになる。このあたり、村上春樹の真骨頂ともいうべき描写。

10月29日、レースの1週間前。朝からちらほらと小雪が舞って、昼過ぎから本格的な雪になる。ついこのあいだまで夏のようだったのにな、と感心してしまう。これがニューイングランドの気候だ。僕は大学のオフィスの窓から、湿った雪片が降りしきる光景を眺めている。身体の調子は悪くない。練習の疲れがたまっているときは、足が重くよろよろとしか走り始められなかったのだが、最近は軽い感じでスタートできるようになった。足の疲れがうまく抜けてきたらしいことがわかる。走っていても「もっと走りたいな」という気持ちになってくる。
しかしそれにもかかわらず、やはり不安は去らない。僕の目の前を一瞬よぎった暗い影は、本当にどこかに消えてしまったのだろうか? それは今でもこの身体のどこかに潜伏し、出番をじっと狙っているのではあるまいか? 屋敷の人目につかない場所に身を隠し、息をひそめて家人が寝静まるのを待ち受けている巧妙な盗人のように。僕は自分の身体の内部を、目をこらしてのぞきこんでみる。そこにあるかもしれないものの姿を見定めようとする。しかし僕らの意識が迷路であるように、僕らの身体もまたひとつの迷路なのだ。いたるところに暗闇があり、いたるところに死角がある。いたるところに無言の示唆があり、いたるとろに二義性が待ち受けている。(p179〜)

今年のニューヨーク・シティ・マラソンは今週末。
走りたくなってきた。

p.s.
ランナーの土佐礼子さんからTB入って、びっくり。これは村上春樹からのTB(もちろん無いけど)より嬉しいかもしれない(笑)

 

 

October 31, 2007 in books | | Comments (0) | TrackBack (4)

10/28/2007

関西レインボーパレード。

Parade_15 御堂筋での関西レインボーパレードを見てきた。いわゆるゲイパレード。大阪では今年で2回目だけど、まだまだこじんまりとした印象。ヨーロッパやアメリカのゲイパレードの巨大さを思えば。
僕は真性へテロなので(って断ることもないけど)、居心地の悪さ、みたいなものをちょっと感じながら眺め、撮影していた。ゲイの友人でもいたらもっと楽しめたろうけど、いないんだからしかたない(笑) って、ここで笑うことでもないが。

でもまあ、明るい。ハウスミュージック(むしろトランスか)を鳴らしながらのパレードなので、観ているだけでも楽しい。それぞれにイデオロギーは内心にあるのだろうけど、それはまあそこそこに主張、ということで、パレードに参加する面々の楽しそうな空気がまた良かった。

フリッカーにも何点かアップしているのでよかったらどうぞ。
こちら
Parade_16

 

October 28, 2007 in others | | Comments (0) | TrackBack (3)

10/27/2007

浦和vsセパハンの政治的意味合い。

もしACL(アジアチャンピオンズリーグ)決勝のカードがこうなったら、日本政府はいったいどう動くんだろうなと、無い頭で考えていたのだけど、ちょっと無為な感じ。でも、少なくともJFCはイランのサッカー協会に何か申し出ているだろう、ってことは思いたいよな。
イランを旅行中の日本人学生がイランの麻薬密売組織に誘拐されてから、もう3週間になろうとしている。その間、22日にパキスタン領内に移されたようだ、というイラン政府からの情報があったけど、それから1週間近く、何の情報もない。

サッカーに政治的な意味合いを盛り込むべきではないけど、いつもどこかしらでサッカーには政治が絡んできたもの。アルゼンチン、イギリス、スペイン、旧ユーゴしかり。中南米で政治が一切絡んでこないサッカーなんてあるのか? というくらい、なんらかの紛争が発生してきている。局面的には、日本政府は被害者のことを考えて、人質を解放させない限りACL決勝は実施させない、とイランに通告してもおかしくないはずだ。

先にAFC(アジアサッカー連盟)から両国協会に牽制が入っているかもしれないけど、このあたりのことに触れた記事はどこにもあがっていない様子。探せば個人のブログではいくつでも触れられているのだろうけど、どうも在って無きような雰囲気を感じないでもない。ひどく楽観的な感さえする。
小泉純一郎だったらまだ何か一言ありそうだけど、福田康夫に何らかのアナウンスを期待するのはムリっぽいね。

まさか人質解放の条件に、裏で浦和に手加減を要求するなんてことはないだろうけど。

 

October 27, 2007 in football | | Comments (0) | TrackBack (1)

10/25/2007

いざ、決勝へ!

Washiテレビ観戦している限り、異様な雰囲気だった。完璧にACL大一番の雰囲気に呑まれていた。浦和らしからぬパスミスが続出し、エリア内でのスリップが多発。田中達也が独走でエリア内に持ち込みながら転ぶなんてことを誰が予想できるか。先発復帰した坪井が相手FWにすばらしいバックパスを提供するなんて、いったい誰が思うか。
リーグ戦でぐだぐだな試合を続けながらも圧倒的な地力の差を見せつけているいつもの浦和レッズはそこにはなかった。脅威であったモタが負傷で不出場にもかかわらず。さらには前回アウェイ戦で2-2のアドバンテージがあったにもかかわらず。
もうこれは疲労以外ほかに考えられない。

チケット争奪戦の影で城南一和は統一教会が手を回して城南一和サポが半数近くを占めるんじゃないかという危惧は杞憂に終わった。ふたを開けてみればいつもの埼玉スタジアムでのホーム戦の真っ赤な光景。城南サポはゴール裏アウェイ側の3,000人のみ。そして平日にもかかわらず、入場者数は51,651人。胸締め付けられる思い。

前半20分、ポンテからのサイドチェンジのロングパスをワシントンが左太腿で前方に極上のトラップ、そのままエリア内に押し込み、角度のないところから超ド級の大砲をズドン! いやこれがほんと、ズドン、としか形容のしようがないすばらしいゴールで、先日の千葉戦での鼻骨骨折の不安を払拭。

が、ショートパスの精度とコンビネーションの流暢さに翻弄される局面多し。特にノブヒサ、坪井のラインでぶっちぎりまくられる。城南は、韓国でのホームの時より明かにチームがまとまっている感じがする。
一方浦和は、相手のプレスが早いとか強いとかいうわけでもないのに、ポゼッションできず、特に達也の足下がおぼつかないことこのうえない。攻撃でチームがハーフウェイラインから上に上がることは本当に稀で圧倒的に攻めたてられて引きっぱなし、結局後半早々に元柏レイソルの韓国代表チェ・ソングクに流れから決められ同点、遂には逆転を許す。

もうセットプレーからの得点しか期待できない戦況のなかで案の定ポンテのFKを阿部が絶妙のヘッドで落とし、走り込んだ長谷部が決め、同点、振り出しに戻せたけど、どうも戦局は...
やっとオジェックが動いてくれた達也→永井の交代も城南の勢いの前には功を奏さず、延長戦はとにかくこらえるのが精いっぱい。
結局、PK戦で都築がチェ・ソングクを止め、最後は平川が決めてゲームセット。
....やれやれ。

この疲労の中、よく耐えたよな、という感慨しか残らない。それでも、勝ってなんぼ、ほんとによくやった。これで決勝はもう、プレッシャーに呑まれるなんてことはなく、我が道を行く的いつもの浦和で望めるんじゃないかと思う。
闘莉王のハムストリング断裂という懸念とチームの疲労はきついけど、ACL決勝もリーグ戦も、もう、本当にのびのびやって欲しいと思う。

ただ、オジェックがこの勝利にかなり舞い上がっているの様子なのが不安といえば不安。

 

October 25, 2007 in reds | | Comments (0) | TrackBack (0)

10/21/2007

ワトソンの真意?

ここまで耄碌したかジェームズ・ワトソン、の件。サンデー・タイムズの取材に対し、

「アフリカに対する見通しは、本質的に悲観している」
「すべての社会政策は、彼らの知性が我々と同等であるという事実に基づいて行われているが、あの土地で出てきた結果はすべて、これが真実ではないことを示している」
「黒人の従業員を雇う人々は、(人々は等しいということが)真実ではないと分かっている」
(→英博物館、DNA構造解明ワトソン博士の講演中止 差別発言で

と発言、その後の批判の嵐にしょぼーんとうなだれ、謝罪発言の後、講演旅行を中止したってやつですが。

ちょっとデリケートな事件だったのでとりあえずスルーして、竹内久美子あたりのコメントがでてこないかなーと静観していました。いやー、さすがに竹内は発言しそうにないですよね? w
finalvent氏も例によって流す感じでネットに上がったエントリに対してコメントをさらっと、で終り。このまま忘れられていくのかな、と思っていたのですが、昨夕、404 Blog Not Found で「充分よければ、優劣はどうでもいい」が上がっていました。
が、あまりにセオリーな内容だったので、気抜け。だいたい、

私が言っておきたいのは、「人種差別が科学的に可能か否か」ではない。仮に可能だったとしても、人種差別をするか否か、なのだ。

なんて、書く必要あり? こんなファンダメンタルなことわり書きをわざわざ書くって、何か釈明しようとしているからとしか思えないような。
おまけに、

黒人が知性において劣るか否かは、反証されていないが証明もされていない。しかし、黒人--に限らず人間--が、社会生活を送るのに充分な知性を有することは、すでに証明されているのではないか。
私には、それで充分だ。

なんて。

知性には反証も証明もされるいわれはない。もしかして小飼弾氏が言いたかったのは「知能」のこと? 知性、って、それこそ各人の基準が認められるはずのもの。
っつうか、ワトソンも「知性」と言っているんですね...
ここは微妙なところなんだけど。

なんか、いろんな誤解が錯綜しているように思えてきた。

 

October 21, 2007 in news | | Comments (0) | TrackBack (0)

10/19/2007

U-22カタール戦(アウェイ)、セオリー通り。

U-22北京五輪最終予選カタール戦、よもやドーハの悲劇でもあるまいに...と呟いても虚勢にもならないと気付いて呆然としてしまう。まさかのロスタイムPKで逆転負け。エリア近辺でのファウルが目立つなあと思っていたら最後の最後で案の定、でした。反町監督を含めて、まだまだ若いチームなのですね。

印象的には、サッカーというスポーツにありがちな、いわばセオリー通りのゲームになってしまいました。
前半、それも終了間際という理想的な時間帯に先制。それまで崩されることはなかったし、効果的なチャンスメイクができていたわけでもないけど、感覚的には、あー、勝ち点は間違いないな、という展開と雰囲気だったのですが....
すべて終った後で柏木と李を下げたのが正しかったのかどうか、オプションのあまりないチームに問うのは詮無いこととはいえ、アウェー戦において1-0のロースコアで守りに入るのは危険な賭け。そしてそれをやり遂げられるメンタルの余裕は反町ジャパンにはなかった、ということですね。
 後半30分過ぎ、GK山本海人の大ファインプレーのあとのPK、あー、これはここでもしかしたら....と思った通りの展開で失点。それがサッカーのセオリー。

ロスタイム、伊野波のエリア内でのハンドを責めるのはお門違いで、相手チームのホームにおいてイケイケドンドンにさせたゲームプランこそ問題あり。でも、今回の代表に限ってはあの展開では引いて守るしかなかった、というのも事実。
反町のメンタルは選手に近すぎる、という弊害は確かにあるのかもしれない。もっと、どっしりと構えていてほしいのですが...

 

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October 19, 2007 in football | | Comments (0) | TrackBack (1)

10/18/2007

試合というよりまったりイベント的だったエジプト戦。

代表戦、初のリアル現地(長居)観戦。浦和レッズの時ほど熱くはなれないけど、チケットが某所で当たったので、せっかくだから、と。
レッズの時と雰囲気違うー、とウチの相方はハイテンションだったけど、まあ、観に行くのはレッズのアウェイゲームばかりだしね。さすがに今回は代表だからホームなわけだし、案の定Jと違ってまんまお祭りの雰囲気でした。佐世保バーガー等、屋台村が出ていたりとか。

闘莉王、田中達也はACLを控えていることもあり(闘莉王は負傷もあり)、チームからの直訴で今回は選ばれず。そのわりには鈴木啓太、阿部の先発は必須なのね、オシム...
他、もちろん海外組はスルー、先発に山岸が入り、FWは大久保と前田遼一。

試合内容はほぼ日本のワンサイドゲーム(4-1)で特筆すべきことはなし。前半2回ほど大久保、遠藤、中村憲剛を中心としたコンパクトでコレクティヴなパス回しにどよめきが上がるも、決めきれず。
が、大久保は見事でした。1本目のミドル、あの位置から左足でえぐるボールを蹴れるってのは凄い。高原の動きが被りましたもんね。なんとこれがA代表初ゴールだそうで。2本目のヘッドも、打点の高さといい、落とした位置といい。
おかげで以降、大久保は狙われまくりだったわけですが、エジプトにとっては時既に遅し。

Osim_4_2 っつうかエジプトはメインのアルアハリのメンツがACLに備えてごっそり辞退していたようでほぼ2軍。オシムは敬意を表したコメントを残していますが、明かに相手に不足ありすぎ。プレスはユルいし、日本によく似たサイドからの攻めに全然怖さがない。
そのわりには日本もパスミス多いし、なんでそうなんねん!? って局面が多々見受けられたのですが、その大半は前田遼一絡み。オシム代表としての経験不足のせいなのか、客席で観ていても、よし、そこにパス! というところにパスを出してくれるにもかかわらず、前田はそこに走っていかないんですよね。で、相手ボールに、と。前田が入った時のコンビネーションがオシムジャパンとしてのオプションになるにはちょっと時間がかかるかもしれない。
チームとしての成熟のことを改めて考えてしまった、オシム1年目のラストゲーム。


それにしても大久保、守備でも出色の出来。今後重要な代表戦でのレギュラーは必至か。達也、うかうかしてら れない。

 

October 18, 2007 in football | | Comments (0) | TrackBack (0)

10/15/2007

初めての『フィガロ』

先日録画しておいた『フィガロの結婚』を観る。昨年のザルツブルク音楽祭、モーツァルトイヤー絡みの企画でアーノンクール指揮、ウィーン・フィル演奏。すでにDVDが出ている(→参照)。クラウス・グートの演出が凄い。
クラシックはもとよりオペラに関してはド素人なのでよく知らないのだけど、オペラでこんなカメラワークって、あり? 現場でリアル観賞している観客には見えない視点が加えられていて、それによる臨場感がすげーヒッチコック的。不安感を煽る煽る。普通、舞台芸術観賞においては見慣れない角度だけに。照明も徹底して計算されているようで、美しい。

幕が上がるといきなり息を呑むことになる。舞台セット、舞台衣裳は一切の装飾らしい装飾が削ぎ落とされたスタイリッシュなモノトーン仕立て。動かぬ登場人物の周りを飛び回るケルビム(天使)、これはパントマイムの舞台か! と思わせるような。このケルビム、というのは原作にはない、クラウス・グートの解釈で登場させた狂言回しらしく、一切歌わない、語らない。
どうです、いったいこの舞台↓にモーツァルトが響いているなんて思えますか?(笑)Figaro

グートはベルイマン映画(他、イプセン、ストリンドベリ等)にイメージを得たというが、そう、まさに。北欧っぽい透明感のある暗さと、誰も気付いていない奥深いところにある悲劇の感覚と。照明が、それを見事に引き出している(って、舞台はセビージャだから、おもいきりラテンのはずなんだけどね)。
あれだなー、ハンガリーの俳優、クラウス・マリア・ブラウンダウアーの映画『メフィスト』とかの雰囲気にも似ている。スタイリッシュなんだけど、底にどろどろっとした情念がほの見えているような雰囲気を伝える舞台。
あるいは換骨奪胎されたカサヴェテスの映画。

第1幕、下僕ケルビーノ(クリスティーネ・シェーファー:男役)のアリア「自分が分からない」にいたる直前のマイムのようなさらっとした振り付けはもう、一瞬のピナ・バウシュか? とも思えるコンテンポラリー・ダンス的なそれ。これは第2幕、同じくケルビーノのアリエッタ、「恋とはどんなものかしら」でも再現される。かすかな困惑・驚きといった表情以外、最後までまったく無表情に歌うシェーファーの歌はド素人の耳にも凄い、と鳥肌立つ。その無表情に、抑えつけたエロい情念がちらちらしている。そしてこの直後のスザンナ(アンナ・ネトレプコ)と伯爵夫人(ドロテーア・レシュマン)がケルビーノを女装させるのだけど、どこか密やかな雰囲気のこの場のエロさといったら、ちょっとない。レシュマンの恍惚の表情といったら、もう、アレなんである。

いやー、モーツァルトのエロって、もっと喜劇的かと思っていたのですが、意外、なんか胸をかきむしられるような、焦がれるようなエロスでした。息を詰めてしまう、ような。それでもどこか透徹した印象を残して。
こんなことならもっと早く観ておくのだった、と後悔。

 

過去のオペラ関連記事 »
 ・ベルリオーズ『ファウストの劫罰
 ・ドリーブ『ラクメ
 ・ヘンデル『アリオダンテ
 

 

October 15, 2007 in music | | Comments (0) | TrackBack (0)

10/13/2007

神尾真由子の音。

録画しておいた『強く、強く~バイオリニスト・神尾真由子 21歳~』を観る。この夏、チャイコフスキー国際音楽コンクールで、日本人としては17年ぶりにヴァイオリン部門で優勝した神尾の凱旋公演を追ったドキュメンタリー。ちなみに17年前に優勝したのは諏訪内晶子。

べたべたの大阪人(豊中)のはずだけど、そんな印象はあまり感じさせなかった。ストラディヴァリウスの音も結局は「自分の音でしかない」とさらっと言うあたり、物怖じしない、言いたいこと、感じていることをズケズケ言える、ああ、関西人やなあ、と思えるが、それは自信の裏付けだろう。でもまあ、度胸に関してはイマドキの21歳だ。イマドキなんだけど、音楽の才能は置いといて、他の同世代との決定的な違いは、根性の質、か。
ソリストとしてのデビューが10歳の時なんだけど、だいたい、N響で、シャルル・デュトワなんである。10歳でデュトワに指揮ってもらうなんて、おらが町のサッカークラブのコーチにクライフが就任するようなものだ。
いや、違うのか。Kamio_2

とにかく音が太い。指揮者の大友直人が言っていたけど、自然で、おおらかな音。演奏中はこの表情だ、ヘヴィメタのギタリストの甘さは皆無。音が表情に直結している。
弦楽器演奏者は演奏中一様に苦悶の表情を伴うけど、曲への追求と理解の姿勢は次元が違う。

現代音楽が好きそうだけど、10年後には、バッハの無伴奏を聴いてみたい、と思った。

 

October 13, 2007 in music | | Comments (0) | TrackBack (0)

10/10/2007

「佐藤可士和の超整理術」

たぶん、ユニクロがニューヨークに進出した時のクリエイティヴディレクションで知った人も多い、アートディレクター佐藤可士和の著。この時の音楽を担当したのがDJの田中知之(Fantastic Plastic Machine)。田中は今でも、UNIQLOCK (ブログパーツもあり。けっこうキレイめでいい感じ)等、ユニクロの音楽ディレクションを続けているようです。
昨年のふたりのミーティング状況が田中のブログにもアップされていました。ミーティングの場所は佐藤のオフィス "SAMURAI" だったのですけど、その画像に見えるオフィスの雰囲気がちょっと凄いのです。→サムライでミーティング。

余計なものが一切排除されています。排除、という表現でいいのでしょうね、これは。とにかく何も、ない。ナッシングです。
デザイン業界って、やたらとモノが散乱しているのが通例なんですけどね。
そして佐藤は書いています。

やはり放っておけばモノは多くなります。意識的に整理を重ねることで、すっきりさせた状態を保っているわけです。自分だけでなく、整理に関してはスタッフ全員にとことん力を入れさせています。
なぜそんなに徹底しているかといえば、結局それが仕事のうえでの、あらゆるリスク回避につながるから。(p68)

それができるようになるために、何を切り捨て、何をどういう順序で残していくか、そのプライオリティ決定の手管を平たく噛み砕くように何度も佐藤は繰り返す。わかっていることだけど、そういうのはなかなかねー、と思う人もいるかもしれない。でも不思議なもので、それを意識的に実行していけば消えていいものは消えてしまうんである。洗練は表面だけでなく、中身にも伴った結果となる。

僕は案外、要らんモノはすぐに捨ててしまうタチだけど、逆に後で、あれ? アレ、どこやったっけ?  となることもある。そういうのはちょっと間が抜けているので、うーん、勉強になりました。

佐藤可士和の超整理術
日本経済新聞出版社
発売日:2007-09-15

 

October 10, 2007 in books | | Comments (0) | TrackBack (1)